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憲法記念日という日に考える「ルール」

今日は「憲法記念日」なんですよね。
1947年の53日に日本国憲法が施行されたんだそうで、
それを記念して祝日にしてくれてるってことらしいです。

今通ってる大学に「日本国憲法」って科目があるんです。
選択科目なんでワタシは取ってないんですけど、
(そんな科目も、あるのね。)
(興味ないってわけじゃないけど、、、、までも、単位取るってほどじゃ、、)
なんて思った記憶はつい最近のことでちゃんと残ってて、

人間って生物が上手いことみんなで暮らしてこうぜってことだとしたら、
「法律」ってルールがないとね。
そういうルールみたいなのがないとそりゃ揉めちゃうから法律ってとても大事だわね。
なんてことを、大河ドラマを観たって、
学生生活送ってたり、
テレビのニュースなんかをフンワリと見ながらでも、
ボンヤリと感じたりしちゃったりするのは、
記念日なんてことでお休みにしてくれてるおかげかもしれません。

そんなゴールデンなウィークのお天気の良い日に
特別に予定もないもんだから、
(さー、どこ行こうかな。)
なんてことを考える傍らに、
(憲法ねぇ、法律かぁ。)
なわて考えながら朝ごはんをしてました。

さて、
いきなりですけど、
六法全書【ろっぽうぜんしょ】
ってわかります?
憲法、民法、刑法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法で6個のやつ。
っていうか6法すね。
スマホで「六法全書とは?」って調べればサクッと出てきて、
ワタシも、今それをサクッと調べて、
あたかも知ってたかのように書いてます。

弁護士さんって、それら六法全書の中身全てを頭に入れてんだか、入れなきゃいけないんだか、
そんな話を聞いたよう大昔に、
(弁護士って、、ヤベーな。。)
って思った記憶があるんですけど、
仕事で弁護士事務所なんかに行ってた経験からすると、
弁護士の先生が意味わからないほどのぶっとい法律の本を出してきて、
確認するのを見ることもあったりで、
(あ、見るのは見るよね。そりゃそうだよね。)
って思ったことで(ヤベー)が多少薄らいだ記憶もあったりで、
きっと、今はスマホなんかでも六法全書を確認することも可能だろうから、
お世話になった弁護士先生の事務所にドラマで見たような書庫みたいなのがあったけど、
(あんなのも無くなってんのかな?ま、無くなるわな。)
なんて想像したり。

ワタシが今日会う誰かに
「あ、六法全書って法律6個言えたりするぅ??」
ってクイズみたいな質問を誰かにするとしたら、
「知るか、んなの。」
って答えが返ってきそうで、
「てかさ、憲法記念日なのよ。今日は。オレはさ、言えっから。」
って、さっきスマホで調べたことを、
ツラツラと6個を笑顔でいうワタシ。
で、それをあたかも以前から知ってたかのように、
あたかも、誰もが知ってるかのように笑顔で語るワタナベシンイチ。
これ、
キモいっすね。
そのワタシという人。

この、キモいやつ。
結構とやりがちなんですよね。
キモいつもりはないけど、
どっかで、YouTubeとかSNSとかネットニュースとか、
検索アプリで主体的に調べること以外でも、
いろんな情報が入ってきて、
その情報の本質とか真実みたいなところはどっかで捉えていないけど、
その情報にとっても共感しちゃったりすると、
それはもう、
あたかも自分の情報にしちゃってること。
みたいなの。
(あるよなぁ。。)
って自分の振る舞いを振り返るのが怖くなったりします。

で、思うんです。

大学ではチラチラとレポート提出の課題が出るんですけど、
そしたら、
もうパカパカ調べます。
スマホいじってGoogleさんに聴きまくりです。
教科書とか開きません。
自分が専門学校で付けてきたノートなんかより
サクッとGoogleさんに聴く方がよっぽど早い。
(これ本当かな??)
って多少の疑いがあったら、他のサイトを見て確認します。
結局、Google内で完結させてる自分がいるわけです。
で、
なんとなくながらも
ある程度、格好のついたレポートが出来上がる。

これ、
すごくないですか?
すごくなくないですかね?
または、
これはダメですかね?
ダメじゃないですかね?

ワタシなりには、
すごいことであって、
ダメじゃないと思う。

でもでも、
「あたかも」って言葉がくっつくのがちょうど良い感じで、
それをひけらかしたり、
それを知ったかぶりしたり、
それが正解だと確信して変化を許容しないとか、
それに縛られてるとかだと、
なんか、
バレちゃう。

バレちゃう。
ってことに無頓着に「あたかも」って感じで話してる自分がいるとしたら、
なかなかに、
キモい。。

今日、
お隣の八潮市ってところに小さなイタリアンレストランがあるらしい。
なんだか、美味しらしい。
ネットで紹介されてた。
食べログでも高評価。
(くーー、行ってみてーー。)
って思ってメモってた店に行ってきました。

窯焼きのマルゲリータと
ニンニクばっちりなのとオイル感がワタシ好みのペペロンチーノ。
なんか、
美味かったんです。

そうすると、
「あそこ、美味いんだわ!」
「駐車場はね、前の銀行の、、」
「ランチはいくらで、、」
「こんなメニューあってね、、」
「男前の人が感じよくてさ、、」
とかってのが言いたくなるのは
「あたかも」行って食べてきたかのように言うではなく、
ワタシが言行って、食べて、見てきて、感じたことの事実。
これには自信があるって言い方はおかしいですけど、
自信がるからなのか、誰かに伝えたい。
って思う。

そういう
「ルール」は自分で持っとかなきゃいけないなと。
相手の論調に対して、それに対立する意見や考えや想いがあったりすると、
「あたかも」
知ってる、わかってる、間違いないかのように伝えることには、
キモいだけならまだしも、
何も伝わらないのだとしたら、
意味がないのかもしれない。
事実をもってして、誰かに伝えることで、
なんらかの影響を相手に与えることが出来ないか?
情報の質を自身で使い分けるとすると
ワタシの「ルール」。

スマホってやつからサクッと得られる情報の使い方。
話し方。
聴き方。
調べ方。
そろそろ自分なりの「ルール」が決まってきそうだ。
しかし、
その今の「ルール」に縛られすぎずに、
「ルール」は時代の変化によって、変えられるものだ、
変えて良いものだ、
変えることを恐れちゃならん。
なんてことを考えながら、

昼ごはんに今日は食べすぎたので、
今晩は食べ過ぎはならん。
という「ルール」には従って、
晩酌の準備をしようかと。
この辺のルールは、
大事にしていこうとは思っております。


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