陰影と象徴 - 映画「ミリオンダラー・ベイビー」雑感
以前観てずっと印象に残っててDVDも持ってるのに、観るのにエネルギーが必要でなかなか観られない作品ってあると思うのですが、この映画もそんな作品です。
クリント・イーストウッド監督の「ミリオンダラー・ベイビー」。公開は2004年の映画です(もっと新しいと思ってました)。
ボクシングを題材としながら、ワーキングプアや尊厳死などの“微妙な話題”を扱った事でも有名な映画です。
今の時代だからこそ色々な人に観て欲しい映画でもありますが、バックボーンとしての宗教や人種など話も絡むので、日本人には感覚的に理解しづらい部分もあると思います。それでも観ておくと思う事だったり考える事があるので、時間があれば観て欲しい映画ではあるのですが。
内容的な部分だったり、結末の考察なんかは沢山されている映画なのでこの記事では触れません。
記事タイトルにある通り、この映画の最も印象的な画造り「陰影」について思った事を書いていこうと思います。
この映画、画面全体がかなり暗い映画です。
まぁこの映画に限らず、近い年代のイーストウッド作品はだいたい画面が暗いのですが、作品を通して見た時に、画面の明るさと陰影を非常に上手く使った演出がなされていると思いました。
物語の前半、主人公がオーナーのジムの風景やボクサーのマギーが出会い、成長していく過程は非常に陰影がはっきりしていて、シルエットが目立つような画面構成になっていました。
主人公やマギー、ジムの雑用で元ボクサーのスクラップの孤独さやある種の「社会的な立場」。ボクシングの動きや舞台となるLAの町やジムの中の静かな雰囲気。それぞれを象徴的にコントラスト付けて視聴者に印象付けるような、とてもはっきりした演出が図られていました。
それは逆に、細部に目を向けず「こういう階層の人」という印象を植え付けたり、意図的に階層分け、カテゴライズする社会的な見方の暗喩でもある、と考えます。それぞれの過去や事情を見ずに、「このステータスの人」と一括りに見せる手法です。
反面、物語後半では照明が柔らかくなったり、暗い画面の中でも暗部に階調があって、影の中でも細部の表情が確認できるようになっています。
それは、前半で敢えて見せなかったそれぞれの人間的な細部を描き出す手法だと考えます。
時系列的に感情移入させながら、徐々に表情の柔らかさやそれぞれの過去、事情を描き出していき、「この階層の人」にもそれぞれの顔がある事を理解させるような描き方です。
初めは「絶対的な権力を持ったジムのボス」かと思われていた主人公が、実は「孤独で迷い続ける老人」であったり。
「ワーキングプアのウエイトレス」が「常に絶望的な状況と戦い続けた女性」であったり。
それぞれにそれぞれの事情があって、今はこういう立場になっている。
それでも、そうなるまでには様々に事情があって、必ずしもそうありたくてそうなった訳じゃないと言う事。
そうした人たちが、ふと出会って、ささやかな(と言うには大きな事かも知れないですが)幸せを共有して、こんな結末を迎えなきゃならなかったのか。
そんな最後なら、細部まで見せないでくれた方が良かったんじゃないのか。
そして、見ている自分もそうはならないだろうか? と考えてしまうのです。
むしろ登場人物たちのように互いに幸せを持ち寄せる人物に出会う事は無いだろうし、逆に映画のような結末を迎える可能性は低いとしても。
生き続ける事の意義を見出せるような生き方が出来るかどうか。
ぱっと見の印象だけで相手をカテゴライズしていないかどうか。
画面全体の明るさや陰影の画造りがしっかりしていると、これだけ想像するほど映像的な密度が増します。
当然、脚本や演技、撮影のレベルも高いので、尚更という事はあると思うのですが。
また、描かれている“微妙な話題”については、今でも大いに議論の余地がある課題なので、観た事がない人はぜひ観てみる事をおすすめします。
非常に良い映画です。
感想としてとても散らかっていて申し訳ない限りですが、思った事を書いてみました。
書いた以外の部分もとてもレベルの高い映画なのでとてもおすすめです。特にギターとピアノのシンプルな劇伴はとても心地良いです。
それでは。
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