[二次創作]真夏の夜の夢

 
 山肌の向こうから、沈んだ直後の太陽の光が差し込む。
 余熱を伴った湿った空気がその光を滲ませ、地上の明るさが落ちるのを遅くしている。
 地上には田圃が広がっている。一面にまだ青く、垂れ始めたばかりの稲穂が植えられ、停滞した夏の空気に微動だにしない。
 辺りは蛙と蝉の声にうるさい程に満ち溢れていた。
 そんな景色の中に平屋の駅舎が一棟、煌々と灯りを放っている。自販機を数台と、駅前に気持ち程度の売店、少し離れて居酒屋兼定食屋がある程度の小さな駅だ。改札も無人である。
 ホームには人影が一つ。
 灯りが直接当たらない駅のベンチに一人、女性が腰掛けている。地面に置かれた缶ビールに片手を当てながら、無人のホームを呆けたように眺めている。顔こそ赤いが、表情は無に近い。
 陽が落ちて十数分、辺りはほぼ真っ暗になっていた。
 と、彼女は足元の缶ビールを掴んで、全力で地面に叩きつけた。缶に残っていたビールが地面に流れ、じんわりと広がっていく。そんな様子を睨みつけながら、彼女はポツリ、と呟く。
「……ざけんな」
 睨みつける視界が揺らいでいく。身体は自分の意思に反して目の中に水分を放出している。涙に滲む。
 心の中は散々に乱れ、そうなっている自分を、少し離れたところからまた別の自分の意識が眺めているようだ。そう思い、なんどもなんども呟く。

 彼女がこの駅に辿り着くまで、色々なことが起こってきた。
 十年と少し前、郊外の高校生には大き過ぎる刺激、絵画コンクールで不相応に大きい賞を受けた。
 特別の才能があった訳でもない。それに見合うだけの努力をした訳でもない。おそらくただ単純に、巡り合わせで彼女は賞を受けた。
 そうして彼女の周囲と、彼女自身も勘違いをした。
 彼女は美術系の大学を受け、合格したものの、失敗した。
 技術も才覚も遅れていて、これといった魅力も薄い。卒業こそかなったものの、彼女は美術から身を引こうと心に決めた。
 そして就いた映像制作現場の仕事で、彼女は頑張った。とにかく頑張って、人並みより上の成績を出した。
「お前といると、疲れるんだよな」
 上司からの言葉に、折れた。
 覇気を無くし、木偶人形のように朝から夜まで動き続けて日々を送った。そんな毎日を過ごす内に心労で倒れ、独り部屋に過ごす内に解雇されたのだ。
 両親に伝えたら、こちらの言い分も聞こうとせずにただ怒鳴られ、帰ってくるようにと言われたのだ。
 そして彼女は、数年ぶりの帰路についた。
 
 駅に列車は未だ来ない。
 彼女は座り込んだままやる事を無くし、ふと空を仰いだ。
 仰ぐというよりは、首の力が抜けた結果として顔が上を向いたという方が近いかもしれない。しかしながら彼女は夜空を見上げることになった。
 そこには星空が見えなかった。
 澱み湿った空気と雲に遮られた夜空は、なんだかくすんだ鼠色をして、なおさら彼女を惨めに見せる。
 寂れた駅に一人、明るくも無い電灯の光にも照らされない彼女。
「どうも、お久しぶりです」
 唐突に声を掛けられ、彼女は驚きの悲鳴をあげた。
 慌てて声の方を向くと、闇に紛れるように立つ黒い人影。その人影は、彼女の驚きようを見て、くつくつと笑う。
 濃紺のセーラー服と黒のスカートに黒のタイツ、スカーフだけが不釣り合いなほど赤く、黒のショートヘアを右側だけ結えた、文学少女然とした女子高校生だった。
 彼女はその少女を知っている。ただ知っているどころか、旧知の仲と言って相違無い仲だった。
 その少女の名は雨森小夜。
 高校生時代の友人であった。
 とは言うものの、彼女が高校を卒業してもう十年以上経っている(正確な年数は忘れた)筈で、今でも雨森小夜が女子高校生であるのは明らかにおかしいはずである。
 しかし、彼女の見る限り、雨森小夜は雨森小夜のままだった。
 高校生当時から背丈や肌質も変わっていない。冷たい音質と柔らかい音色の同居した声も変わりないようである。
 呆気に取られて口を開け閉めさせていると、彼女は音も無く歩み寄ってきた。
「そんなに驚かなくても良いじゃないですか。私はいつだって私だし、あなたはいつだってあなたじゃないですか。昔からいつも言っていた事ですよ」
 そういえばいつもそうやって軽口を叩いていた気がする。
 高校からの帰りの電車で、幾本も流れる川を越えながら話していた記憶が流れ出す。二人笑顔で、思い出はいつも明るく。
「回想に尺を取るのは勿体無いですし、あまり時間もないですから、先に行きませんか?
 丁度良い頃合いで、列車が入ってきましたよ」
 相変わらず良く回る口で彼女は言う。言葉通り、ホームへ列車が滑り込んで留まり、目の前で扉が開く。光が溢れ出し、二人を照らし出す。
 列車の中には、誰もいない。
 座り込んだままの彼女へ、雨森小夜が手を差し出す。
「空気を読んでくれたのか空も晴れましたし、星空でも眺めながらお話をしましょう。
 きっとそういう星の巡りですよ」
 私は差し出された小さな手を取って立ち上がり、空を見上げた。確かに雲は消え、見えすぎなほど星空が見えている。
 夜空を割るように横たわる天の川と、大小、色も様々な星々。幸いなことに新月のようで、星の明るさだけが見て取れる。
「銀河ステーション、ですよ」
 澄の手を取りながら、雨森小夜は笑みを見せながら言う。
 列車は二人を乗せ、再び滑るように走り出す。
 
 列車は駅を出ると、徐々に高架を登って進む。
 この先は大小合わせて十本以上の川が流れる場所で、線路はそれらを跨ぐように大きな橋の上に作られていた。
 列車が坂を登る感覚を身体に感じながら、目の前に座る彼女を見つめていた。
 やはり、あの頃から変わっていない。なんとなく流していたけれど、疑問は疑問だ。ただ、疑問と同時に過去の彼女の言葉も思い出す。
「私はずっと、図書委員なんですよ。今も、昔も、これからも」
 澄の心を読んだように、一言も違わず彼女が言う。
「あなたは気になるかもしれないですが、正直この場においては本当にどうでも良い事なので、これ以上気にされるようならはっ倒しますが、どうしますか?」
 こちらの顔をまじまじと見つめながら、真顔で雨森は言う。この感じ、変わらないなぁと思いながら、かつて張り倒そうと殴り掛かられた時の打撃はあまり痛くなかった事も思い出す。
 問い質してみても良いかとほんの少しだけ思ったが、空気が悪くなるかもしれないと思い直し、気にしないことにしておく。
「見て下さい、北十字星ですよ。すこし暗いですが、あの下の方にアルビレオが隠れています」
 窓の外に目を向けながら、雨森が言う。言われて外を見てみれば、列車は星空の中に突き進んでいた。
 高さ十五メートルにもなる高架は、周囲に建物など無い田圃の上を進み、まるで宙に浮いているかのような感覚を覚えるのだ。
「北十字星ははくちょう座の別名で、天の川のすぐ上に、大きな十字を形作っています。
 夏の大三角の一角を担うデネブが含まれている事でも有名です」
 言われる辺りに目を向けても、どれがその星々なのかはいまいち判然としなかった。
 あまりに星がありすぎて、大きさや色、明るさなど様々だが、今まで見た中でもっとも沢山の星が見えているだろう。
 そうして気付く。
「いくらなんでも、こんなに星が見えるのは変じゃない?」
 問い掛けてみると、彼女は感心したような顔付きをした。
「気付かれるのが早いですね。さすが私の友人。
 言葉で説明するのも野暮天ですから、窓から下を見て御覧なさい」
 そう言ってニヤリと彼女は笑った。
 その表情の時点でなんとなく想像がついてしまった。
 座席から立ち上がり、扉へ近付く。
 窓から覗いてみれば、下にはただただ暗闇が広がっていた。
 線路や、その下の高架は見当たらず、まるで大きな湖の上空を滑るように、列車は進んでいた。
「銀河ステーション、ですよ」

 その言葉が切っ掛けになって、一瞬にして思い出された物語。
かつて私と彼女で、大真面目に語らいあった物語の記憶だ。
 銀河ステーションに、北十字星。それに、アルビレオ。
「銀河鉄道の夜」
 ぽつり、と呟くと、彼女は満足げな笑みをこぼした。
「憶えていて下さいましたね。駅で同じ言葉を言った時には反応が無かったので、てっきり忘れ去ったのかと思いましたよ」
 胸のスカーフを撫でながら、彼女は自慢げに胸を張った。
 正直な事を言えば先程まで記憶から抜け落ちていたのだが、ここまで要素を揃えられると嫌でも思い出してしまうものだ。
 それに、私にはそれを積極的に忘れたいという思いもあった。
「大丈夫です」
 私の心を見透かすように、彼女は言う。
「あなたが気に病むあの瑕疵は、話すべき時に話しますから」
 表情はいつもと変わらない。
 やわらかな浅い笑みと、こちらを見つめる大きな目。
 彼女はいつも、向き合う事を求めてきた。
「だからそれまで、あなたの事を、聴かせてください」
 
 はくちょう座を過ぎ、こぎつね座を過ぎ、蠍座を過ぎ……。
 停まること無く列車は進む。
 その間、私はこれまでの私の人生を彼女に話していた。
 大学での挫折や、後悔。身に付いた、身に付かなかったもの。就職し、そこでの頑張りと無力感。総括すれば失敗だらけの私の人生だ。語り口も恨み節だし、聴いていて楽しいものではないだろう。
 それでも彼女はじっくりと聴いてくれた。
 こちらに向き合い、適切なところで適切な相槌を打って、流れが止まった時は急かさず言葉が出るのを待ってくれた。決して感情的に入れ込まず、言葉として受け入れる。だから私も話しやすかった。

 南十字星を過ぎた頃、ようやく話は終わる。
「——私の話は、これで全部よ」
 二人の間に、しばしの沈黙が訪れる。列車の進む音だけが他に誰もいない車内に響き続けている。
「この列車はどこまで行くんだろう」
 ふと心に浮かんだ疑問が口をつく。ここまで停車もせず、誰かしらの乗降もない。進みは非常に早く、乗車してからここまで、体感だと二時間ほどだろう。
「そろそろですよ。物語では南十字星で他の乗客はみんな降りて、ジョバンニとカムパネルラだけがその先に進むんです。
 そしてそこで、二人はあるものを目にします。そこが私たちの目的地です」
 雨森は上半身の筋肉をほぐしながら柔らかい口調で話す。動き続ける列車の中で長く話をするのは、意外と疲れるものだ。
 窓の外に目を向けると、変わらず星が輝いてる。しかし先程までと比べると、その量は大きく減っていた。輝きの少ない夜空は、必然的に暗闇が増してくる。列車の周りは急激に暗くなっていく。
「南十字星を過ぎて、二人は窓の外に大きな石炭袋を目にして、非常に大きな恐怖に襲われます。これがその石炭袋、南十字星の暗黒星雲です。
 私たちの終着点ですよ」
 
 列車が停まる。
 高架上のなにも無いホームで扉を開け、私たちが降りるのを待っている。ホーム上には扉の数だけ長方形を描く光が投げ掛けられて、その他はただ暗闇に呑まれていた。
「さ、行きましょう」
 雨森が私の手を引き、列車から降りていく。私はなんとなく、もうこれで終わるのなら、それも仕方ないのかもしれないと思っていた。
 私たちが降りると、列車は音もなく扉を閉め、滑るように発車した。やって来た方へ。彼女の言葉通りここが終着なのだろう。
 雨森の方を見ると、深呼吸しながら脚を伸ばしている。小柄な体型だけに疲労が溜まりやすいのかもしれない。
 目が慣れてくると、ホームの端に手すりがあるのが解った。そこへ向かい、二人で歩き出す。
「さっきの話、言ってないところがあるんだ」
 二人で進む足元を見下ろしながら、ぽつり、と言う。
 雨森はなにも言わない。彼女は知っているから。
「そもそもなんであの絵が描かれたのか。雨森は知ってるものね」
 そう、この人生を歩む切っ掛けとなった、コンクールに出された絵の事だ。
 大胆な構図と細やかな細部表現、奇抜ながらまとまりのある色彩感覚。私の描く絵とは毛色の違う作風だ。それもそうだろう。
「私が話すものをあなたが絵にしたんだものね」
 私の言葉に、雨森は反応を示さない。
「美術部の課題として提出したあの絵を先生が勝手にコンクールに出してたのも驚いたけど、まさか賞まで取るとはね。すごく素敵な絵だったから、驚いたけど、納得できた。
 けどなんで、雨森が描いた事を先生に言わなかったの?」
 雨森はなにも言わない。暗闇の中、ホームの端から外を向き、夜風にスカートを揺らしている。
「私も私で言い出せなくて、雨森が言ってくれると思ってた。だけど時間が経つにつれて、言い出せなくなった。周りは私の努力が実ったって思い込んでいたし、先生たちも期待して大学の推薦まで持ってきた。
 なんで、あの時なにも言わなかったの?」
 星灯りのない空気が冷たい。身を切るような夜風となって、全身に押し付けられる。雨森の髪飾りが揺れる。赤と青、澄んだ色は闇に混じった小さな星のようだ。
 長い沈黙を破り、雨森が口を開いた。
「ほんとうのさいわいとはなんだろう」
 揺れる髪飾りを押さえ、広がる闇の中へ声を投げかける。
 物語の言葉だ。そして、あの時の言葉だ。
 ジョバンニとカムパネルラは南十字星を過ぎてから、「ほんとうのみんなのさいわい」の為に生きてゆくことを考え、石炭袋で別れてしまう。
 そしてあの絵のモチーフは、ちょうど物語のその場面だった。美術部員だった私は、放課後の美術室で彼女と過ごしたのだ。技術の少ない私が構想を練り、話して、雨森に描いてもらったのだ。
 本当にあの絵を描いたのは彼女だ。
 私はただ、こうしたらいいんじゃないかと話しただけだ。
 彼女は私に問いかける。
「あなたにとっての、幸いとはなんですか?」
 彼女がゆっくり振り返る。暗闇の中、彼女の顔は見ることができない。
 私は答えられない。答えに詰まる私を置いていくように、雨森は続ける。
「私にとってはとても簡単な問い掛けです。皆さんの夢を聴いて、それが叶うように願うことです。皆さんがそこにいて幸せと感じられるところにいてもらうことです。
 皆さんの幸いを一緒に見ることが、私にとっても幸いなんです」
 思い出す。
 あの美術室で、私は彼女に確かに言った。もっと上手くなって、もっと上手くなれるところに行きたい、と。彼女はそれを聞いてこう言った。
「あなたはもっと上手くなります。その為の場所に行けるように手伝います」
 あの時の言葉を雨森は繰り返す。
「あなたは今の人生を失敗と考えているかもしれません。それでも、私にしてみればあなたは挑戦をし続けた尊敬に値する人物です。
 切っ掛けの絵こそ私との共作ですが、以降あなたは自分で作品を作り、大学で技術を身に付けました。仕事でも一定の評価を得ました。
 あなた自身にとって満足のいく評価でなくても、周囲から見ればあなたはしっかりと評価される人物なんです」
 彼女がこちらを向く。顔は見えないが、しっかりとこちらを向いている。
「幸いであることって、なんだと思います?」
 彼女が再度問いかけてくる。
「……、それなりの充足感を得ながら、そこにいたいと思えること、かな」
 その答えに、彼女は少しの優しい笑みをこぼす。
「そうですね。私もそう思います。でも、それだけじゃ足りないんですよ」
 彼女の言葉に、私は疑問を得る。その雰囲気を捉えたのか、彼女が続ける。
「あなた自身だけではなくて、一緒にいる人たちも満たされていなければ、それは幸いではないんです。
 人は一人では生きられないのですから、必ず、一緒にいるひとがいるのです」

 私はなにも返せない。
 一人で生きていると思っていた。
 大学では遅れながらただ技術の習得に励んでいた。
 仕事ではとにかく精確さと速度だけを追求していた。
 それでも思い返すのならば、大学では課題に付き合ってくれる同課生がいて、教えてくれる教授がいた。仕事では同期が競ってきて遅くまで時間を過ごし、上司はそんな時間でも成果物を受け取って言葉を掛けてくれた。
 私が無意識に切り捨ててしまった人たちだ。
 無意識に切り捨ててしまったが為に、噛み合わなくなってしまった私は独りになってしまったのだ。
 雨森は言う。
「遅くなってしまってごめんなさい。
 でも、私はあなたに幸せになって欲しかったんです。貴重な時間を私に費やしてくれたあなたに。
 だからこうして、あなたとお話に来たんです」
 口調と息遣いから、彼女がどんな表情をしているかは想像がついた。きっといつもと同じように、不敵な微笑を浮かべているのだろう。
「それにあなたが幸せならば、あなたと過ごした私自身も、幸せになれるでしょうから」
 そう言って、雨森は黙ってしまった。
 私はゆっくりと息を吐いて、肺の中を空っぽにする。そしてゆっくりと夜の空気を吸い込んでいく。身体の熱を奪うような冷えた空気が身体の中に満たされていく。
「——。本当に、ずるい女だわ、雨森小夜。
 結局、あなた自身の為じゃない」
「もちろん。終わりのない図書委員ではありますけど、私も生きていますから、せっかくなら幸せでありたいのです」
 間髪入れずに答えが返ってくるあたり、流石だ。一本筋が通っている。
 なんだか晴れやかな気分だった。胸の内にたまった澱をむりやり吐き出されたような感覚だ。そして同時に、この邂逅がもうすぐ終わる事も解ってしまった。
「解ったわ。そうして私の中で折り合ってあげる」
 そうは言ったものの、思い返してみればいつもこうだった。彼女と言い合いになっても大抵は言い負かせられずに、こうして憎まれ口で終わらせてしまうのだ。
「ありがとうございます。ついでといってはなんですが、そんなあなたに一つ言葉を送りたいと思います」
 こちらに向かって歩きながら、雨森が言う。ゆっくりと歩みを進め、本当に目の前までやってきて、私の身体を抱きしめる。
 顔を近付け、耳元で囁くように話す。
「もうすぐお別れです。目を覚ましたらこの事は憶えていないかもしれません。でも出来れば憶えていて」
 彼女のこんな声ははじめてだ。
「歩き続けて。どんな時でも、あなたとあなたの大切な人のために、幸せにむけて歩き続けて。
 そうするあなたがいれば、私がいたことの証だから」
 なんで、そんなに寂しそうなのだろう。
「永く図書委員をやってるけれど、私を見つけて、一緒にいてくれた人はそう多くないんです。そんな人と別れるのは、やっぱり惜しいですから」
 抱きしめていた身体が離れ、気恥ずかしげに一歩下がる彼女が、なんだか愛おしい。
 三十手前のいい女である私からは女子高校生の彼女など、年の離れた妹のような感覚なのかもしれない。
 暗い石炭袋の中ではあるが、慣れた目のおかげで彼女の表情を見ることができた。
 素敵な笑顔だ。この顔が見れただけで、こうして会えたことに意味を見出せる笑顔だ。
「そう。ありがとう」
 彼女の頬に手を当てる。柔らかさと温かさを感じる。
 感じる。もう目覚めだ。
「また必ず会いましょう」
 一瞬だけ、驚く彼女の顔が見えて、私は目を覚ました。
 
 朝陽に照らされた高架の駅。
 駅の周囲には幾本かの川が流れ、その他は田圃が広がっている。膨らみかけた稲穂はまだ緑で、手の切りそうな葉と一緒に朝の風に揺れている。
 ホーム上には等間隔に立つ電灯と、ベンチが二つ。
 そのベンチの一つに、私は座っていた。
 なんでこんなところにいるか、正直憶えていない。二つ手前の駅でビールを飲みまくっていたのは憶えているので、ひょっとして酔ったままここで降りたのかもしれない。
 ただ、不思議とすっきりした心持ちだ。
 荷物の中から携帯電話を探す。まず電話をしなくては。苦手な両親だが、きっと今なら上手く言葉に出来ると思う。
 私がこれからどうしていきたいかを。
 
                          おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?