華優希宝塚大劇場卒業、宴は続く

2021/5/10 華優希の宝塚大劇場卒業公演、サヨナラショーが行われた。

まだディナーショー、東京を控えている今、自分自身のため彼女について様々な思い出を振り返る場をここに作ろうと思う。

9月に恋に落ち、11月に絶望し、5月に希望を見る。

たった9ヶ月の片恋が私を少し大人にした。その間、私はTwitterを離れた。時間は、過ぎてさえしまえば、どんな爪痕が残ろうと、少なくとも前に進むことができる。私は自分の中から嵐が過ぎ去るのを待ちたかった。

胸いっぱいの憎しみが、やんやと主張して、この苦しみをだれかにぶつけてしまいたいと喚いていたこともある。その重みをどこでもいいからよそへやってしまいたいような気がした。それは胸やけのするある種の甘美さを伴って私を疲弊させ、解放の時を狙っていた。

しかし私はそれを一滴も漏らしたくなかった。意地だった。れい華への恋から生まれたどんな感情も一ミリたりとも他人に見せたくなかった。

絶対見せてやるものか。彼女を糾弾した連中に、悪意を正当な批判として黙殺した連中に。

憎しみや嫌悪ををちらつかせて威嚇するやり方は彼女の尊重する心の在り方と最も遠いところにあると信じている。だって彼女は清い人だ。彼女は何かをほのめかす卑しさを持たなかった。あまりに潔く、芯の通った美学を貫く人だ。彼女に一歩でも近づきたい。その勝手な信仰が私を許し、励まし、導いた。

結果として、いまだに私は憎しみの赤子を誰に譲り渡すこともなく抱いている。これから先、重みに腕が引きちぎれようとも私はこの子を抱いていく。誠実でありたいのだ、彼女に対してだけは。

今日も私は彼女を愛している。彼女がこの世に存在すること、出会えたこと、本当に幸せだ。彼女の姿勢、努力、成果、それを貴ぶのは後付けの理由にすぎない。何の理由もなく、しかし確かに彼女を愛している。

かつて私は愛する人に対して、事実に基づくのならば批判することを正しいと思い、受け入れられないことにため息をつく立派なモラハラ野郎だった。彼女は私を変えた。正確には彼女に対して抱いた愛情が私を変えた。抱いた愛情が本物だったら、人は相手の総てを受容し、愛することができると学んだ。

これからの私は自分の愛する人を自分好みに変えるぐらいなら、別れを選択するだろう。自分から見て相手の欠点と思える場所を変えようとする傲慢さを持ちたくない。相手を構築するすべての要素が限りなく眩しく、等しく愛しい。何一つ欠けてもその人らしさは失われかねないからだ。

相手の在り方全てを受容できないなら、それは愛しているのでなく、愛の名のもとに自分の想いを押し付け、支配したいだけなのだ。

愛した人ぐらい、すべてを肯定し、自分が変容する器を持てというれい華の関係性は私に革命を起こした。彼女たちはより柔く剛い人との結びつき方を教えてくれる。

一つ補足しておきたい。彼女は何かに負け、敗北してここを去るのではない。宝塚が華優希を喪失したのだ。

トップコンビも現実のカップルの関係性も今過渡期にある。

今はまだ、舞台上で対等に主張しあうことそのものが目標になるコンビがもてはやされる。これはまだ通過点だ。その到達点は相手の主張を聞き、相互に相手ではなく自分を変える意思をもった上で、自己主張できるコンビではないだろうか。

その未来の一端をれい華は見せてくれた。

相手を立てることは、つまり相手を尊重することだ。かつてはその矢印の方向性が娘役から男役に向いてしか存在しなかったことに歪があった。

これから先は、男役が娘役を尊重し、目に見える形で大切にし、それがかっこいいとされる流れがきっと当たり前になる。双方向に相手を立てられるトップコンビが求められる時代になるだろう。

彼女たちの目指したもの、その取り組み方は宝塚が欲していた新しい時代のトップコンビ像そのものではなかったろうか。

華優希様、宝塚大劇場卒業おめでとうございます。愛をこめて。

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