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ニコニコ大百科・王陵の項目を作成しました。

かつては劉邦の兄貴分であり、母親が死して劉邦に仕えるように呼び掛けて、最後は劉邦との約束を守って漢王朝を支えた王陵についてです。

なぜか、検索では上位の来ない項目になってしまいましたが、沛の遊侠時代の劉邦について語る上で重要な人物であり、劉邦死後の漢王朝についてのキーパーソンとなる人物でもありますので、項目を設けました。

『赤龍王』では、ただの田舎町のやくざの親分として序盤に登場しただけの王陵でしたが、大物感はあり、史実では重要人物であることを知り、おどろき、かつ、少しうれしく思った記憶があります。

概要について

王陵は一部では劉邦の忠実な部下、あるいは劉邦が大好きな兄貴分のように創作で描かれることもあって、必ずしても劉邦と仲がいいわけではなかったということを強調しました。

王陵が途中で劉邦と別れて、南陽にまで移動して勢力を築いていたのは謎が多いですが、このことについて、あるだけの記述から推測を行っています。王陵が単独で陳勝の乱に参加したということはないと考えます。沛の出身であったはずなのに、王陵とともに、劉邦に降伏した戚鰓という人物にも注目しています。

これまた、謎が多い、王陵が張蒼を助けた話と劉邦の配下となった時系列の問題、やっぱり南陽にもどっていた問題、王陵が劉邦の子を救った場所や時期の問題、王陵が項羽の本拠地である彭城に近い豊邑を守り抜いていたのかという問題、色々と記述が少なく謎が多いのですが、なんとか、推測でつなげています。

また、王陵が劉邦の遺言を守ろうとしたのは、あくまで義侠心ゆえにであり、陳平と周勃の意見に黙ったのは、納得したからではなく、言葉を失ったからであると解釈するのが自然とかんがえて、記載しています。

付録について

付録では、「豊邑について」は、劉邦たちの故郷である豊邑が沛県に属するただの集落に過ぎないのに、かなり重要な要地となっていることについて記しています。

豊邑が大梁から移住してきた人たちが集まった土地であることについて論じ、また、劉邦が大梁が落とされた時に成人に達しており、張耳の食客となっていたであろう年齢であることも記しています。

「白馬の盟について」も、史書にも唐突に登場する言葉ですので、どういったものでのかを記しています。王陵や周亜夫の言葉にあるだけで、史書には実際にはどの時期であるか、どういった事件であるのか、明確には記されていません。

また、「白馬の盟」は研究での皇帝と家臣の「盟約」にすぎず、命令というほどではなく、「できるだけ守って欲しい」という意味合いのあるものであり、当時の劉邦にはそれだけの権威と権力はなく、どこまで守らなければならないと信じられたものではないか怪しいということも書いています。

「劉邦の遺言について」も、家臣の死期などを余りにも未来を予測しすぎており、恵帝や呂雉が人選をそれなりに考えたという形跡もあり、怪しいという意見もあることも書いています。

確かに、樊噲がいないことを除けば、呂雉に都合のいい人選になっています。

付記した人物について

付記した人物は、雍歯・王吸・薛欧・戚鰓・張蒼です。

王吸・薛欧・戚鰓は王陵と関係があることから書いています。特に、王吸・薛欧は豊邑出身です。王陵の功臣との順位が12位なのは、彼らより上でなければいけないという事情によるものかもしれません。

雍歯は私自身が経緯をまとめてみたいと思っていた人物でしたので、まとめました。wikipediaには趙歇と陳余の部下とありましたが、私は張耳の部下であったと考えています。

張蒼は本来は独立した項目でもおかしくないのですが、知名度が低いことからここにいれました。かなりの重要人物です。

創作物における王陵

『通俗漢楚軍談』、『劉邦』、『赤龍王』をいれています。創作では、王陵はかなり出番が多いです。

関連書籍

関連書籍は、王陵についてのかなりの考察が加えられた、郭茵『呂太后期の権力構造 ―前漢初期「諸呂の乱」を手がかりにexit』 (九州大学出版会)をいれています。学術書ですが、とても分かりやすいです。

主な出典と参考とした書籍

出典
『史記』高祖本紀・陳丞相世家・留侯世家・張丞相列伝・高祖功臣侯者年表・漢興以来将相名臣年表

佐竹靖彦『劉邦』(中央公論新社)
郭茵『呂太后期の権力構造 ―前漢初期「諸呂の乱」を手がかりに』(九州大学出版会)
李開元『漢帝国の成立と劉邦集団』(汲古書院)

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