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夏の流れ

熊本の避暑地と言えば、菊池渓谷。10年近く訪れた事はなかった。全国的に有名な撮影地でもあり、遊歩道沿いにいくつもの滝があり、足場も良く、写真好きにはたまらない場所なのだ。四季折々、樹々に囲まれた渓谷の風景が美しい。だだその中で写真の腕を競うにはとてもハイレベルな戦いとなる。(戦いとは大げさか) 夜明けに、森の樹々の隙間からいくつもの光の筋が滝に差し込む景色はとても幻想的なのだ。足元の岩盤を洗うガラスのような美しい川の流れ。秋になると、その中を鮮やかな紅葉が流れて行く。そんな写真が全国の写真雑誌にいくつも掲載されている。僕も一度そんなを写真が撮りたいものだと出かけて行ったが、そのためには現地の駐車場で前泊するか、朝3時に家を出ないといかん…で、前回出たのは朝7時で、着いたのは昼前。滝のまわりには観光客がいっぱいで写真どころではなかった。

そんな渓谷の写真の個展を夏に開きますと、トクナガさんの今年の年賀状に書かれてあった。彼は熊本市内に住んでいて、多い年で年に100回は菊池渓谷に通ったと語った。しかし、今もって個展が開催されてないのはトクナガさんが病気になったからだ。

久しぶりに彼の事務所に行くと「実は癌になりまして」とげっそりさせた顔で出て来た。「今日の午後から、抗がん剤治療」なんですと言う。胆管に癌が見つかり、転移し、開腹したが手に負えず、またお腹を縫い直したそうだ。こりゃ、俗にいうステージ3か、4ではないか…。頑張れとか、必ず治るとか軽々しく励ます雰囲気ではない。適当にまた来ますね…とか、云いながら…炎天下、汗だくで自転車漕いで30分、自分で禁じていたトンコツラーメン、ハーフサイズ食べて自分の事務所に帰る。僕の頭もおかしいので車の運転は出来なくなったのだ。数年に一度、免許センターに医者の診断書も出さないといかん。

しばらくすると、トクナガさんから電話がある。「美味しいそばでも食べに行きませんか?」すこし、元気そうで、快諾し彼の運転する車で店に向かい「美味しいそば」をごちそうになる。どうやら好物のソバでも食べないと抗がん剤の影響で食欲がわかないらしい。そばをすすりながら、菊池渓谷の話になる。シーズンになると全国からカメラマンが押しかけ、場所取りも大変との事。相手は自然そのものだから、景色も大きく変動し、思うような写真が中々取れない…から何度も通う必要があるとの事など…。想像通りの話なので、僕はなんだかやる気をなくした。そこには全国の有名無名のカメラマンが撮り尽くした景色があるのだ。ところでトクナガさん「あなたの癌ってステージ3?4?だよね?」と聞くに、「いゃいゃ、ステージ1ですよ」と答える。「だから抗がん剤治療なんですよ、秋に再度、開腹手術なんですが、今のうちに好きな物食べて体力つけとかんとですね」「今度手術したら、胃も削除、腸も削除…癌はいたるところに転移しているそうなんで、とにかく体力付けとかんとですね。」(僕は友人に彼がステージ4と言いふらしていたけど…やっぱ4だろそれ)

最近の僕の写真のテーマは「水を撮りたい」というもので、水は川のながれでもいいし、海でも、花の雫でもいいと思い、そんなつかみようのない思いを描いていた。ただ、久しぶりに写真について誰かと語る時間があったので、それから数日後、何か、もやもや、やる気が出て来た。結果、家人に運転をお願いし、菊池渓谷の夏の流れに向かう事になった。

で、カメラを構えると…これまで細かい設定を、前の晩、全部リセットしたことに気が付く…理由は分からない…どうしたことだ、肝心な操作方法が分からない…三脚もぐらつく…買ったばかりの物を落として足を曲げたのだ。

とりあえず、滝の写真は適当にあきらめて、川の流れが数枚撮れた。トクナガさんに見せようと電話するが、抗がん剤の治療が2回に増えたと元気がない。これでは、自慢しようがないではないか。( 写真好きの仲良しは、密かに自分の写真をほめ、相手の欠点を密かにけなしあう、そんな関係なのだ)




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