見出し画像

尾崎放哉の墓参りに行く。99回忌。

尾崎放哉とは自由律俳句の天才俳人。明治18年に生まれ、大正15年に41歳で亡くなった。自由律の俳人として有名なのは、尾崎放哉と種田山頭火。山頭火は熊本にも所縁があり、投宿した木賃宿(織屋)が今もある。

だいたいの文系の男は若かりし頃、無頼派、ロマン派、放浪の旅にあこがれ夢を見る。友人K曰く、誰しも一度は麻疹にかかるようで、仕方がないと言うのだが、麻疹の熱が冷めると長い髪を切り、スーツを着て就職活動を始めたものだ。もちろんKも。ま、そんな話はどうでもよいが、だらだらと年老いて面倒臭いオヤジになった僕には今も麻疹の微熱が続いている。当初は山頭火の句に夢を見、その「分け入っても 分け入っても青い山」の向こうにロマンを感じたのだけど最近、妙に尾崎放哉の事が気になり、放哉の本を漁り読み始めた。

この両極端の天才俳人の事だけど、山頭火は放浪派、放哉は(やむなく)定住派。

山頭火は生きる為に、放浪し、友達もたくさん居て、宴会でみんなと酒飲んで、階段から落ち死んだ。あのお坊さんの格好は、生きたいが故のコスプレなのだろう。男のロマンなのだ。求道者なのだ。みんな酒に酔い、語り合い、騒いで大変なのだ。

山頭火の座右銘「おこるな しゃべるな むさぼるな ゆっくりあるけ しっかりあるけ」
(なんじゃい、「あいだみつお」の世界ではないか。居酒屋のトイレの洗面台で額に入れてある処世訓のようで、つまらない) 山頭火はたくさんの日記を残し歌集も残し、旅をした。
放哉もエリートコースから無一文に転がり落ち(今で言えば重度のアルコール依存症、酒乱なのだろう。誰かきちんと治療してあげればこんなことにはならなかったろうに) 途中、肋膜炎、結核で体を痛め、妻とも離婚。やる事なすこと、すべて失敗、上手くいかない。その時の心境は山頭火の座右の銘「おこるな しゃべるな むさぼるな ゆっくりあるけ しっかりあるけ」そのものなのだろう。お母さんが亡くなっても葬儀に参加しなかった。重い病気を体に宿したまま、すっからかんとなり、お寺を転々とし、最後は小豆島の南郷庵(みなんごあん)でやせ細り独りで死んだ。放哉は自分に死が近いことを充分に承知し、句を読み、実際は餓死に近い死を選んだ。当時は肺病病みに近づくと感染すると恐れられていた。誰もそう簡単に寄っては来ない。ロマンも何もない。ただ壮絶な孤独のみ。そんな病におかされた放哉の世話をしたシゲさんのおかげで、僕らは放哉の句を最期まで読むことができた。

散文も入庵雑記の数編のみ。あとは借金の無心の手紙、ハガキの山。いいわけ、言い逃れ、わび状・・・。放哉は本当に無一文。須磨寺で撮影された写真を見ると、浴衣のような薄い着物をまとって軽い笑顔をうかべ、腕を組んでいるだけ。学生、社会人の時に映った写真とは別人なのだ。どこでどうなったのか、坂道を転げ落ちてゆく。何とか這い上がろうとしてつかんだ草も手の平から滑り落ち、どんどん転がり落ちてゆく、まさかこんなことになるはずがない。全身どろだらけ…そして最後は自分は俳句(詩)を書くしかないと自分の人生をあきらめたのだろう。

「自らをののしり尽きてあおむけに寝る」

僕の心は、放哉の句集を読みこの一句に救われた。

毎晩、この句を読んで眠る。他人に迷惑かけるな、こうあるべきだ、頑張れ、努力せよ、社会の役に立て、などと言われても、なんか馬鹿馬鹿しい、息苦しい、努力なんてまっぴら、本物か?偽物か?だいたい人をそんな視線で見定めようとする社会には詩は生まれない。

これまでの数えきれない失敗、悔恨。僕もこの句のように、今も自分をののしり、眠りに落ちる。地上とは苦しい思い出ばかりだ。そしてこの句に救われるのだ、僕と同じ人が居た。

「夕べひょいと出た一本足の雀よ」

この一句も読む度に、心がほぐれて行く。この雀も、狭い机の上でパソコンを開くと奥から出て来てくれる。

小豆島、南郷庵に来て、わずか8か月。放哉はどんどん転げ落ちてゆく孤独の中で、俳句を3000近く詠む。独り部屋の中で、焼いた米を食べ、水を飲み、熱を出し、自分で注射を打ち、せき込み、血を吐き、孤独が句になる。

「追っかけて追いついた風の中」

風の吹く草原を、自分の後ろ姿を追いかけてようやく追いついた。そしてその後ろ姿は振り向き、どんな顔をしていたのだろう

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

4月6日
僕は早朝家を出て、熊本駅から新幹線で神戸へ。神戸駅から私鉄に乗り須磨寺駅で降り、須磨寺に向かう。

「明日は雨らしい青葉の中の堂を閉める」

須磨寺で読んだ俳句の中で一番好きな句だ。境内を歩いて回り、新神戸駅から岡山駅に向かい、バスで岡山港、小豆島に向かう。土庄港に着いたのは夜。

4月7日
早朝6時に宿を出、コンビニで弁当買い、港で食べる。おそらく、埋め立てられた港で、当時の海岸線はもっと手前にあるのだろう。すぐに、西行寺に着く。放哉と山頭火の句碑が並んで立っている。この日は、放哉の命日で昼から西行寺で催しがあるのだ。三重の塔へ向かい、港を見下ろす。そこから歩いてすぐに南郷庵があった。放哉の墓に手を合わせる。

南郷庵は再建されたそうだが、作りは、正確に再現されたのだろうか?おそらく、この窓から海を眺めたのだろう。(館内は撮影禁止)カメラを出し、窓からの景色を撮る。満開の桜。もちろん海は見えないが、下の民家がなければちょうど海が見えたのだろう。

「障子あけて置く 海も暮れ行く」

記念館の庭には大きな松の木が立っている。この木は当時のままの松の木なのだろうか?再建されたとしても、わざわざ松の木を移植することはないのだろう。当時の松の木のままと信じて乾いた木の幹にじっと手の平を当て、押す。

来年は100回忌。100年の時を超えても「放哉の句」は在る。
僕の麻疹の熱は覚めない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「わかれを云いて幌をろす白いゆびさき」

転げ落ちる放哉の旅路の途中、離別した妻の馨は、放哉の死の電報を知り大阪から、小豆島に向かう。

放哉の死に駆け付けた馨は、じっと真夜中の庵に目を据えたあと、庵に入って畳に膝をつくと、激しく泣いた。更に、棺の内壁にもたれて座っているすでにして骸骨のような放哉に近づくと、悲鳴に近い声をあげて泣いた。

放哉は馨と別れ、一人、京都の一燈園に入る。その放哉に宛てた、別れた妻 板根馨の手紙

「私は必ず職業婦人になってお金をもうけ、あなたを引き取って、昔日の華やかな生活をさせてあげます。それまで待っていて下さい」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?