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くも猫、ふわふわ日誌 3-15 水俣曼荼羅その後

前回の映画「水俣曼荼羅」についての自分の文章が偉そうで気色悪いと思いながらも仕方なし。ツイッターで見るに、全国の名画座で「水俣曼荼羅」が大好評とのこと。熊本でもアンコール上映が決まったと聞いた。これまで、ある程度関心、情報を得ていた人も、何だか「水俣病が終わった」ような「そうではないような」煮え切らない気分の人も多かったのだろう。要するに水俣曼荼羅を見て、その思いの結論を得られたのだ。「水俣病は終わっていない」「終わった事にされようとしている」という結論が得られたのだ。だから、せめてみんな「水俣曼荼羅見ようぜ」という思いでツィートするのだろう。

3月11日毎日新聞「水俣病子世代の上告棄却…最高裁60代8人を患者と認めず」。もちろん裁判の詳細は分からない。今回はいろいろな報道の合間でニュースにもあまり取り上げられなかった。ネットニュースも裁判の報道だけ。最高裁の裁判官に最低限の水俣病についての理解があったのか?専門家医療関係者の話を聞いて判決したのだろうが、その医療関係者が無知であれば、これまでの判断基準を踏襲しただけの気がする。もしそうであれば何万人が水俣病の検診、認定申請を行っても水俣病には永遠に認定されないことになる。どう思うか?蒲島知事さんよ。あんたの県民幸福度の数値はダダ下がりのままだぜ。いっそ最高裁の議場で「水俣曼荼羅」を上映してから裁判官に判決をしてもらえばいいのにと思う。そうこうしているうちに、患者さんたちは時の流れの波にのみこまれ、沈んでいく。誰も手を差し伸ばさなければ、そのまま彼らは沈んでいくのだ。コロナもそうなんだろうな。自宅で療養せよと言われ、亡くなった人たちの裁判も始まりかけて、行政の責任で救えた命が救えずに「死因はコロナではない」という言い訳もできずに、これからどう裁判で国は補償するのだろうか。オリンピックどころではないし、大阪万博どころではなかったのだな。

ここ10日くらい、気圧の変化でもあるのか気分がすぐれず、毎晩パキシルのお世話になる夜が続いていた。どうにも体全体が重く疲れが取れない。

とうとう、右の額の箇所に「たんこぶ」が出て来た。神経痛か、髄液漏れか。頭の後ろがじくじくしたり、気分がとにかくすぐれない。本を数冊よむ。西村賢太氏の死をきっかけに改めて氏の作品を数冊読む。彼の作品を読む時間だけが救いの時間だった。西村氏の死因は「クモ膜下」かもしれないな。次に目取真俊氏の「水滴」。これまで読みそうで読めず初めて読んで良かった。その間に目取真氏と辺見庸さんの対談本も読む。本との出会いも一期一会なのだろう。こんなどん詰まりの過疎地に住んでいて、本との出会いしか楽しみはない。今日から「戦争は女の顔をしていない」を読み始める。たまたま買っていたが、まさかこんな時に読み始めるとは。

頑張って市内の事務所まで車で通勤していたが、帰路に対向車のヘッドライトで脳が疲れるので、やはりJRで通勤となる。だからまた本が読める。

家の猫の目を見ると安心する。僕は人の目は見ない。




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