にじさんじを見て生意気になった男(随筆)

今回はにじさんじを見るようになってからの心境の変化と獲得した新たな視点について述べる。単なる回想というより、自分との対話だ。

にじさんじと自意識

にじさんじを見るようになって心境の変化がいくつかあった。ホロライブとは風土も雰囲気も人も異なり、新鮮な価値観を受容できた。自分の評価基準がかわいさから面白さに変わったり、男性のライバーを見るようになったり。
ともかく、最初に自分の心に浮かんだ思いを吐露しよう。

――これ、俺でもできるんじゃないか


こういうものだった。はっきり言って生意気だ。このような意識を抱いたことに自分でも驚いた。そして同時に自分の自意識過剰を恥じた。

ご存知の通り、人気ライバーというのは甘い仕事ではない。様々な配慮が求められるのはもちろんのこと、トーク力や機転、人によっては歌唱力なども必要になってくる。加えて、配信機材に精通していること、動画編集に明るいことも要求される。

私には不足しているものが多い、多すぎる。向き不向きという表現はあえて避けるが、私は喋りが立つほうではないしユーモアのセンスはどこかに置いてきてしまった。今私がVtuberになったところで、芳しくない結果に終わるだろう。
とにかく、ライバーになって人気にこぎつけるのは一朝一夕の努力や生まれつきの才能によるものではない、ということだ。そんなことは周知の事実であるし、私にとってもずっと前から既知の事実だった。

それでもなお、私はあのような安直な考えが頭に浮かんだのだ。

なぜ、現実を知っていてもなお甘い考えに至るのか。

無知と無理解というのは恐ろしいもので、人間を無謀の域に導く。能力の低い人――自分の能力について無知であり、他者の能力について無理解な人――ほど、自身を過大評価するという事実はダニング=クルーガー効果において心理学的に証明されている。

とはいえ、人気ライバーへの道が険しいことを私は既に理解していた。消去法的に考えれば、私は自身の能力について無知だったわけだ。
これは自信過剰バイアスによるものだろう。自信過剰バイアスとは、自らの知識や能力を過大に評価するような、根拠のない過剰な自信から生じるバイアスだ。「自分なら上手くやれる」とリスクを見くびって、正常な判断ができなくなってしまう。私はこれに囚われていたのであろう。
だから、あのような考えに至った。

まとめよう。

無知と無理解は人を高慢にさせる。そして、私は高慢な考えを抱いてしまった。人気ライバーの不断の努力への理解はあった。しかし、自身の能力について無知だった。詳細に言えば、自意識過剰バイアスがかかっており、「能力があると錯覚していた」というのが正しい。

ホロライブを見ていたときに同じことを考えなかったのは、単に彼女らが女性アイドルという特殊な位置にいたからだろう。それが、にじさんじという比較的ジェンダーレスな環境に移って、私は一縷の望みを抱いた。
加えて言えば、私は無意識に――俗に言う深層心理――において、「Vtuberになってみたい」だとか「ちやほやされたい」という根源的な好奇心や承認欲求があったのかもしれない。

最後に

この記事を書いたのは「生意気言ってんじゃねー」と言われるためではなく、自身のうちに潜むバイアスについて少しだけでも目を向けていただきたい、と思ったからだ。そしてできることならば、それを通して自分の正直な気持ちや根源的な欲求と向き合っていただきたい。

かのソクラテスは「無知の知」を唱えたが、言うは易く行うは難しだ。「山月記」の李徴のように、自分の実力から目をそむけ続けてしまう人も多い。偉そうに語っている私も自分の実力については理解しきれていない、というより、理解したくないのかもしれない。
人間は様々なバイアスや希望的観測に阻まれるため、自身の無能や無知あるいは実力そのものを真に理解するのは至難の業である。

また当然のことながら、無知や無能だからといってチャンスが潰えるわけではない。むしろ自分のレベルを理解して初めて、努力というものが現実的な手段になってくるのだ、と私は考える。
能否はさておき、今のところ私はVtuberになるつもりも、にじさんじに入るつもりもない。

ただ、トーク力だとか機転だとかを学んでいる新人の視点でにじさんじを見てみると、めちゃくちゃ楽しめるよ。

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