にじさんじに見る狂気――増え続ける狂人

(にじさんじファンの方、お初にお目にかかります)

今回は元ホロライブファンの私がにじさんじに抱いていた心理的抵抗感の原因について解明したので、記事にした。

なお、この記事を執筆するにあたって、私はにじさんじの直近の新人七名※1の初配信及び各種切り抜きの視聴を済ませている。また、にじさんじを侮辱する意図は一切ないので留意していただきたい。

※1.空星きらめ、金魚坂めいろ、世怜音女学院(せれいねじょがくいん)五名(敬称略)

「やべーやつ」になろうとする新人

まず、主題を語る上で狂気を定義する必要がある。

狂気を「(人間の)理性に相反する社会的及び文化的な逸脱」と定義する。
狂気は軽微なもの(奇抜な格好、奇天烈な言動)から甚大なもの(発狂、凶悪犯罪)まで含む。また、必ずしも攻撃性を持っているものではない。例えば、中二病もこの場合一種の狂気である。
「狂気」の定義については『狂気の歴史』(ミシェル・フーコー著)を一部参考にしている。

定義付けが終わったところで新人の性格を手短に紹介しよう。にじさんじの配信の雰囲気はホロライブとも打って変わっており、私はさながら明治の岩倉使節団のようにそのエキゾチシズムを味わった。

空星きらめ――かわいい。冒頭がびっくりチキン。声が個人的に好き。

金魚坂めいろ――かわいい。イラスト・アニメのスキルは必見。百合百合してる。

朝日南アカネ――かわいい。うどん食べながら登場。森のくまさんが上手い。

周央サンゴ――かわいいンゴ。サンリオが好きらしい。鳴き声クソマロの音読。

東堂コハク――かわいい。落ち着いた敬語口調が特徴。ホロライブ寄りで好き。

北小路ヒスイ――かわいい。ヒスイ色の未来、良かった。サメ映画が好きらしい。

西園チグサ――かわいい。明朗快活。後輩ポジかな?と思ったけど全然違った。

彼らの一部はなぜか「やべーやつ」として振る舞おうとする。そして、ファンは「にじさんじだ」と言う。ここでファンが口にする「にじさんじだ」というのは単なるトートロジーではなく、「にじさんじという箱固有の狂人じみた言動をしている人(=やべーやつ)」という意味だと思われる。
新人の狂人度を測る。これはホロライブでは滅多に見られない現象だ。

ホロライブの新人はみな、かわいさを前面に押し出す。見え隠れする狂気はあるものの、それはアクセントに過ぎない。かわいさに極振りしたホロライブのお遊戯会のような初配信は、にじさんじのファンからすればいささか物足りなさを感じるだろう。しかし、ホロライブに求められているのは「かわいさ」であり、「やべーやつ」ではない。

視点を変えれば、ホロライブは「癒やし」を、にじさんじは「エンタメ」を求められているという箱の違いが浮き彫りになってくるが、この議題は一旦置いておこう。

なぜ「やべーやつ」になろうとするのか

なぜ彼らは「やべーやつ」になろうとするのか。それはファンが求めている「エンタメ」の一部だからだと考えられる。歌が上手ければ注目される。絵が描ければ、ゲームが上手ければ、巧みな話術があれば、企画力があれば、、、etc。では、どれも中途半端なライバーはどうか。

「たとえ目立った能力がなくても、私たちは『やべーやつ』として貴方を受け入れますよ」

ファンが囁く。おそらくこれが「やべーやつ」を生み出している原因である。狂人だからにじさんじに入るのではなく、にじさんじだから狂人として振る舞う、ということである。

もちろん、「やべーやつ」と言われているライバーの中にも、才能や能力を兼ね備えた人は多くいるということを一応付言しておく。

一旦整理しよう。

まず、一部の新人は狂人として振る舞う。

なぜか。直接的な理由としては、狂人という存在がファンの求める「エンタメ」の一つであり、没個性的なライバーはこれに縋る傾向がある。

ここで一つの疑問が生じる。

なぜファンは「引く」のか

ライバーが狂人じみた行動をしたり、それっぽい経験談を話すと、多くのファンは「えぇ......」という引きの行動を取る。

箱の名前を冠した「やべーやつ」の形容詞「にじさんじ」がファンに用いられているのを見る限り、ファンの狂人需要は十分認められるはずだ。

これこそ決定的な矛盾である。

本題を考慮する

つまり、私がにじさんじに抱いていた心理的抵抗感は「見世物として『やべーやつ』を強く求めているにも関わらず、いざライバーの狂気が発現するとファンは消極的な反応をとる」という矛盾が生み出す違和感によるものだった。ライバーがイカれた行動をしてリスナーが「えぇ......」と引くような風土が苦手である、と言い換えてもよい。

違和感と言われてみれば、もう一つ思い当たる。

私は「やべーやつ」の狂気に違和を感じてしまうのだ。
要は作為的な狂気である。ウケ狙いの狂気と言い換えてもよい。社会からの逸脱をあたかも一種の武勇伝のように扱うその様は、そこらの不良とやっていることが本質的に同じである。さらに、それは純粋な狂気によるものではなく、自己顕示欲によるものが大きい。

考えてみれば、私が二年前にじさんじを去ったのも、この作為的な狂気に迎合するような、別な表現で言えば、ただの「やべーやつ」を歓迎するような雰囲気が原因だ。私はキャラの幅がどんどん広がることを期待したが、実際には「やべーやつ」の割合が増加していくばかりだった。
百歩譲って狂人が濫造されるのは構わないが、ファンはなぜそれに「引く」という消極的なリアクションをするのだろうか。ライバーを見世物として楽しんでいるのなら「何言ってんだコイツ」と笑い飛ばせよ、と私は思う。

そうしたブレーキが無い限り、「やべーやつ」の自己顕示欲から生じる狂気が止まることはない。下ネタをのべつ幕なしに連発するのも、自分がいかに狂人であるかをことさらに語るのも作為的な狂気である。「引く」という行為はそれを助長させるものでしかない。

狂気が正真正銘に輝きうるのは、行動の片鱗にそれが秘められたときであろう。例えば、月ノ美兎氏は余談で雑草を食べた話をした。「校庭の雑草を食べていた」という、凡百のライバーなら嬉々として本題にするような尖った話題をおまけ感覚で扱ったのだ。これほど身の毛のよだつ狂気があるだろうか。いや、ない。


クラスに一人はいそうな軽度の狂人を囃し立てて「やべーやつ」と認定していけば、狂気の質が下がるのは必然である。

――どうせ見るのなら、もっと桁違いの狂人が見たい。

前述の『狂気の歴史』によれば、ルネサンス期に狂人は神の理性に接近しすぎた存在として見なされていた。この解釈の一部が私の感性に組み込まれているのかもしれない。そう、どうせなら美しい狂人が見たい。

例えば御伽原江良氏、彼女は狂気を放っている。怒りのボルテージが最大限になった際の彼女のヒステリックな咆哮はまさしく狂気であるが、これは余りにも直截的である。彼女の狂気は、野性的であるという点で社会からの逸脱を表している。粗削りの素朴な狂気、好みの分かれるタイプだ。

したがって、私は合理性の不可侵領域の住人である文野環氏に敬愛を表したい。彼女は疑う余地のない、純然たる狂気の権化であり、それはもはや理性に潜在する狂気というよりむしろ、かろうじて理性が狂気にしがみついている。彼女こそ狂気と理性の黄金比だ。
彼女の行動の多くは予測不可能であるという点で、(人間の)理性から乖離しており、それはすなわち現代の理性社会からの逸脱である。また、それは単なる逸脱ではなく、高次な何かを表しているような気がしてならない。イスラムのスーフィズムに通ずるような、神秘的で崇高な狂気だ。

簡単なまとめ

私のにじさんじの心理的抵抗感は二つの違和感から来るものである。

一つ目は、自ら狂人を求める一方で、いざ狂人と対峙すると消極的な姿勢を見せるというファンの無自覚な矛盾から来る違和感

二つ目は、自らの狂気をこれ見よがしに露呈する故意的な姿勢が生む違和感

である。ライバーが安易に狂人として振る舞わなければ、あるいはファンがライバーのブレーキとして作用すれば、この違和感はある程度マシになるだろう。

そして、ライバーの中にはその狂気を自分のものにしているものもいる。その中でも私は文野環氏を尊敬する。彼女は崇高な狂人であると同時に庇護欲を彷彿とさせる愛らしさも持ち合わせている。かわいらしい逸材である。

ぜひ忌憚なき意見を聞かせていただきたい。以上だ。

あとがき

ホロライブに戻るつもりはありませんが、にじさんじに移住するつもりもありません。元ホロライブファンの観点から、にじさんじの特異性を観察し「にじさんじ観察記録」と称して細々と記述するつもりです。第一回は誰にしようか迷っていますが、新人七名のうち一人を観察するつもりです。

北小路ヒスイちゃんのキャラデザが「ぬきたし」に出てきそうで抜群に好みなんですよね。担当イラストレーターを調べてみたんですが、非公表でした。
今のVtuber業界の不安定さを鑑みれば、担当イラストレーターを公表しないというのは賢明な判断なのかもしれません。

※誤解を招く表現が一箇所ありましたので書き換えました。(8/22)

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