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児童福祉司、面接、ソーシャルワーク。

児童福祉司ってなんだろう。
子ども家庭ソーシャルワーカーの資格を巡る諸所の経過を他人事のように眺めている。
あたりまえか、その議論の渦中に、当事者の姿が見えないのだから。
いつだって人間(ヒト)は、他人(ヒト)の畑を耕すのに忙しい。

先日請け負った研修のテーマ
児童福祉司のおこなう面接、その大切なこととはなんだろう。

この仕事
深刻度と影響は違う
影響がどのくらい今出ているかは見える
深刻度は内部障害みたいなもの
痣できてるけど元気だし、が下手したら何年も後に倒れたり
私たちの仕事はその深刻度を見立てること
その精度こそが、専門性。
そこの公的な担保に社会的責任を負った機関

同時に
究極的に、その深刻度、はわからない。
矛盾しているが、わからない。
わからない自分をわからないままでゆるせること
わからない相手をわかろうと傍に居て決して同じように体感できない世界を感じようとすること
その人を取り巻くあらゆる人々に想いを馳せてそこに浮き上がる様相を眺めること

つまり
いつどんな問題が起きるかわからないひとの傍に
誰にも加担せずだがしかし離れることなく
寄り添い続ける作業

それはとても勇気のいること

急に傍に立っていたひとが倒れたら
あるいは亡くなったら
それは「自分のせいではない」ことを
多くの人が弁明するだろう

不安から解放されるため、
問題にわかりやすい原因を人は設定したがる
そして問題の最も傍にいる人に
不審の目は向けられやすい

あらゆる形の弁明が世界には溢れていて
みなこの人間という動物の群れの中で
生きることに必死だ

いつでも責められる可能性に晒された中で
ある人はわかった気になってそれ以上目の前の家族をわかろうとすることに心を砕かなくなり
ある人は「わかっているけれどできない」と声高に叫ぶ
そしてある人は「この問題はどうしようもないこの子と家族のせいだ」と見下す

そうやって
一番安全なところにいるはずの人が
必死になって自分の身を守っている。

この最前線に立ち
私たちはそもそも何のために働いているのかを忘れてはいないか
目の前の「混沌とした何か」と闘うことが目的になりすぎて
はるか背中にある「本当に守りたかったささやかなもの」を忘れてはいないか

あなたは何のためにここに立っているのか

あらゆる面接、カンファレンスは
是正のための交渉とディベートの場ではなく
弱さを認めそれでも尚生きていく人々の
対話と協働と相互作用の場として展開していく

そのためには
支援者が自分の弱さと向き合い
愛し愛されたくさんの人に支えられていること

弱さを認め合うことを
ネガティブな側面を晒し合い赦しあうことと
勘違いしている人が多い
それはお互いの境界線を破壊的に犯し合うことだ

ネガティブもポジティブも
全部相まって自分自身で
操作できない大きな人生の大流の中
完璧でないままに、今日もただ呼吸していること

改めてここで、児童福祉司にとっての面接とは?

聴し、と書いて、ゆるし、と読む。
それが私の、軸とする処。

令和5年12月某日 師走の車内にて

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