事象を多面的に考えてみる
人は誰しも死に向かって生きている。そうした普遍的事実であるにもかかわらず、死に関して真剣に考えようとはしない。むしろ考えないのが普通だ。
私も40歳を超えたので、さすがに老けたなぁと体の衰えを感じる。しかし本書にあるように自分が死ぬことを本気で信じているかと問われれば、信じてはいないと正直に答えざるを得ない。あと40年ぐらい80歳位まで生きられるんじゃないかとぼんやり思っている。あと40年ぐらいだと思うと、死に向かった準備とか死後の備えとかを考えるのは、まだ早すぎると思ってしまう。
とは言え、死ぬのにベストなタイミングはいつかわかるのだろうか?
本書の自殺の考察で、死ぬのがマシとも言える泥沼状態が永続的に進むとわかっているのであれば、その入り口がベストのタイミングなのかもしれない。
でもそれは後から振り返ってと言う結果論でしか分かり得ない。
死は、一般的に負のイメージである。人類は長い間、死(あるいは死の恐怖)を乗り越えようと神に祈りを捧げたり、献上物を捧げたりしてきた。
「ホモ・デウス」によれば、人類は死を凌駕し神になろうとしているとある。
人は不死であれば、本当に幸福なのだろうか?
本書では不死は幸福にはなりえないことを多面的に論じている。不死が良いものでなければ、死が悪いものとは言い切れない。
死の状態や意味を可能な限り多角的にとらえると答えはいくつも出てくるし、あるいは出てこない。つまるところ自分の納得解を得る努力をしなければならない。
社会生活に置き換えるとVUCAの時代と言われるように正解は誰にもわからない時代になった。
ある事象においての解釈は人それぞれのメガネのレンズに映り様で大きく左右される。より深く知りたいのであれば、他人のメガネを借りて見てみることも必要かもしれない。度数が合っていなければ、おそらくクラクラするであろう。ただそれも、その所有者が見ている光景なより深く知りたいのであれば、他人のメガネを借りて見てみることも必要かもしれない。度数が合ってなければ、おそらくクラクラするであろう。ただそれも、そのメガネの所有者が見ている現実なのだ。
話を戻すと、死と言う1つの事象に対して、「誰か」の意見に委ねて何も考えないのはとても楽だ。自分にとって緊急度が薄いと根拠のない自信で脇に追いやりがちである。
しかし、the time は不意にやってくるものだ。
たまに時間をとって家族と話し合うのも悪くは無いと思った。