The Japanese Way of Life――てるさんの場合

てるさんは、生涯つつましいモラリストだった。

行儀よくすること、正直であること、人の悪口は言わない、人の嫌がることはしないことが、彼女の信条だった。母は陰で「修身ばあさん」と悪口を言っていた。

てるさん、というのは、私の父方の祖母だ。

てるさんは明治時代の後半に貧しい士族の家に生まれ、明治末期に、代々の当主による道楽と放蕩のせいで没落した士族の家に嫁いだ。

嫁ぐまでは小学校の教師をしていた。嫁いでからは家を支えるために、本家に残った舅、姑に私の父親を預けて、町に一軒家を借りて移り住み、薬屋を営んだ。

死ぬまで毎日日記を書いた。日記にはその日のごちそうや日常で使うものの値段なども書いてあった。てるさんが死んだ後、その日記を欲しいと思ったが、父は取り合ってくれず、そのまま塵となって消えた。実に残念だ。

てるさんはモラリストだったが、自分の信条を私たちに押し付けたりはしなかった。
楽しい遊びのように、正式なお辞儀の仕方を教えてくれた。畳の上に座って手を置いて、親指と人差し指で三角形を作り、そこに鼻を入れて上半身を倒すとお辞儀になると言う。言われたとおりにすると、よくできた、よくできた、とほめてくれた。

てるさんは、心の広い人だった。

当時母屋では両親と私を含む四人の子供たちが寝起きし、てるさんは小さい隠居所で暮らしていた。その隠居所の四部屋のうち、南向きの二部屋は、中学に上がった子供たちに占領されたので、てるさんには北向きの暗い二つの部屋しかなかった。でも、それについててるさんが不満を言ったのを聞いたことがない。

母屋には父親の飼い猫である代々の家付き猫がいたが、てるさんの隠居所には、行き場のない、病気の猫や事故で前足を無くした猫たちがいた。猫に薬を飲ませたいが、どうにもうまくいかない、とぼやいていた。

夕暮れ時、隠居所の暗い居間の囲炉裏を囲み、てるさんと猫たちが座っていたのを思い出す。

てるさんはきれい好きだった。

小さい隠居所の部屋の畳はいつもきれいに掃き清められ、南側に面した縁側には塵一つ落ちていなかった。水道と煮炊きする釜しかない質素な台所には、ピカピカに磨き上げられた鍋がかかっていた。

てるさんはまた、手先も器用で、よく、私とすぐ上の姉に人形の服を縫ってくれた。

てるさんは姉をかわいがった。姉は性格のいい女の子だった。

あるとき姉は、てるさんから、人形用のバレリーナの衣装を縫ってもらった。私はそれがうらやましくてならなかった。すると、てるさんは、私の人形に、手の込んだ着物を縫ってくれた。赤い裏地のついた赤紫の絹の着物で、裏地と表地の間に薄い綿まで縫い込んであった。

てるさんは物知りだった。

私が学校に上がったばかりのころ、時代は旧ソ連と米国との冷戦の真っ最中で、世界中が核による第三次世界大戦の予感におびえていた。子供の私は、ほぼ毎晩、核戦争の夢を見た。夢の中で、星空の下で赤く燃える火が家々を焼き尽くし、地球は粉々になった。

私に、原子について教えてくれたのもてるさんだ。

てるさんと一緒に町に買い物か何かに行った帰りだった。てるさんは宙に指で書いて説明してくれた。どういう風に説明してくれたかは忘れた。だが、どこで説明してくれたかは覚えている。道路の片側には小学校の運動場があり、もう片側は家の周りを囲む竹藪が続いていた。道路はまだ舗装されない土のままで、自転車やリアカーのわだちでぼこぼこだった。

てるさんは小柄な体つきで、やせていた。年を取ったせいか骨格がはっきり出ていたが、整った顔立ちをしていた。私はてるさんの建前だけを見ていて、暗い本音に気づかなかったのかもしれない。それでも、てるさんの怒って歪んだ顔を見たことがなかった。私の記憶にあるてるさんはいつも微笑んでいた。

てるさんは、九十近くなると足腰が立たなくなり、最後は老人ホームで死んだ。九十三歳だった。寝たきりになっても面白いことを言って、周りの人を笑わせていたらしい。てるさんはとてもいい人だった、とすぐ上の姉が、老人ホームで働いていた看護師から聞いたそうだ。姉はその看護師とあまり愉快ではないもめごとの話し合いで会ったので、お世辞ではないと思う。

てるさんが一つだけ、若いころの話をしてくれたことがある。女学校を出て教師になり、始めてもらった給料をつぎ込んで、白いレースのパラソルを買ったという。たぶんそれは彼女にとっても、彼女の家族にとっても、とてつもない贅沢だったのだろう。

でも、てるさんは若かった自分の愚行を楽しんでいるようだった。

十五六のころのきれいなてるさんは、小柄な体の頭上で白いレースのパラソルをくるくる回し、緑の水田の間のあぜ道を歩いたことだろう。

江藤淳の『アメリカと私』という随筆に、「The Japanese way of life」と言うような表現がある。

私はこの十年ほど、日本人は明治維新で、そして太平洋戦争の敗北で何を失ったのか、知りたいと思ってきた。「和魂洋才」という明治時代のスローガンにもかかわらず、それ以降、どう見ても和魂が洋才に食い尽くされてしまったとしか思えない。

私は、戦後自分が受けた教育がだめだったと思っているわけでもないし、和魂が洋才より優れている、と思っているわけでもない。ただ、中途半端な洋才だけが取り残され、それだけでは足りない、と思うようになった。そこで、かつてあった、おとぎ話のような和魂を知りたいと思ったが、それができないもどかしさがあった。和魂自体が、失われてしまったからだ。

和魂を「日本人の生活の在り方」とすれば、てるさんの生涯はその一つの例かもしれない。てるさんを思い出しているうちに、そう考えるようになった。

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