好きなアプリのサービス終了がずっと悲しい

わたしはメインジャンルが1年以上前にサービス終了したアプリゲームのおたくです。

以前公開していた記事で「供給のない作品の夢女をしている」話を書いたのだが、この表現自体には若干の違和感があった。


世の中には既に連載・放送終了した作品を愛している人はたくさん存在しているだろうし、コンシューマーゲームであればソフト1本で完結するものがほとんどだろう。世界観によっては既に作中で死亡してしまい二度と登場しない人物を愛している人もいるだろうし、健在だったとしてもストーリーの関係で次に登場するのは現実世界では数年後になるかもしれない。そういった人々にも「供給」はないと思うのに、なぜか自分のサービス終了を特別視してしまっている。


わたしは「自ジャンルのサービス終了」が人生の中でも本当につらい出来事だ。今日も悲しい。
例えば「漫画の連載終了」と「サ終」に何の差があるだろうか考えたら、わたしは「自分に責任があるかどうか」であるように思う。


アプリゲームは基本的には永久機関だ。収入が見込める限りは終わりを迎えることがない。
例えばメインストーリーで誰もが納得できる結末を迎えたとしても、その作品で儲けることができる限り「サービス終了」させることはないだろう。結局のところアプリのサ終は100%打ち切りなのだ。そしてその打ち切り理由は直接的な「売り上げ」である。わたしたちファンの課金がゲーム制作費に対して足りなかったから。それ以外にない。

完結漫画でも「打ち切られた」作品はサービス終了に近いと思う。わたし自身、作者様が「もっと描き続けたかった」とこぼした作品が好きで、そのときはひどく責任を感じた。わたしの応援が足りなかったから、わたしが単行本をもっとたくさん買っていたら、と後悔した。(わたし一人で何とかできることではないのだけれど)

その点、作者様の理想通りに"描ききられた"作品の完結理由にファンの存在は関与していないだろう。こいつは単行本の売り上げにならないからと公表されて死亡したキャラクターも聞いたことがない。


そもそも、アプリゲームとはリアルタイムで運営とファンが作り上げていくものだと思う。
双方が要望を伝えあうことで成立している。そしてどちらかが相手に「不誠実」になった瞬間崩壊してしまう。

とはいえアプリゲームの存続に対し、"個人ができること"自体は少ない。
一般人であるわたしだけの経済力でゲームを存続させることは不可能だ。しかし、もしもわたしが毎月1億円の課金をリリース以降続けていれば今日もアプリは存在していたのだ。間違いなく。


自ジャンルのサ終が決まった直後ひと悶着あり、運営ツイッターが「今まで何の反応もしてくれなかったのに、ファンのみんなはずっとどこにいたの(※意訳)」とツイートした。それを見た瞬間悔し涙が止まらなかったし、そんなことを言われる筋合いはないと怒りもこみ上げたが(そしてその後ツイートは削除されたが)、結局のところ、自ジャンルが終わった理由はそれなのだろう。わたしたちの責任だったのだろう。

きっとわたしは自ジャンルが「供給がない」ことをどこかで「自分のせい」だと思っている。
そしてそれがサ終を"特別視"してしまっている理由なように思う。

その他にも見返せない・読み返せない・やり直せない・二度と開けない・声も聞けない・発展しない・未来がない・新規ファンも増えない・布教もできないとないないづくしのアプリゲームのサ終だが、わたしが今でも悲しい大きな理由は「自分のせいでなくなってしまったから」なのかもしれない。大好きな作品のアプリがなくて、わたしは1年経った今日も悲しい。

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