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6.目の見えないご夫妻の讃美

 私が教会を訪ねたのは、3.で紹介したように仕事をクビになったことがきっかけでしたが、教会を初めて訪ねたときに牧師先生から御言葉を開きながら掛けて頂いた言葉が印象に残り、ほのかな希望を見い出すことができました。
 
 行き場を失い、途方に暮れている今の自分を受け入れてくれる存在、そして、頼ることのできる存在があるのかも知れないと感じ、目の前の現実に押しつぶされそうな中で、私は教会にすがるような想いで過ごしていました。

 そんな折り、イースターの礼拝が行われ、週報に引退された牧師夫妻が特別讃美として歌を歌われるということが紹介されていました。
 そのご夫妻とはその前の週にお話したとき、失明されていることを聞いていました。お二人の内の奥様は、5.の記事で私の顔を触った方でした。

 お二人の演奏が始まった後「目が見えないのに讃美歌を歌うのか・・・」という気持ちで聴いていたのですが、おだやかな笑顔で歌っておられる姿を見ているのと、二人が心からの喜びの歌を歌われていることが伝わってきました。

 自分の置かれているみすぼらしい状況と比べると、お二人の歌う姿には、何かまばゆい感じがします。
 私が思わず「目が見えていないのに・・・」と心の中でつぶやくと、突然、心の中に、今までに聞いたこともない太く深い声で「見えていないのは、どちらか?」という声が聞こえました。

 私の心に浮かんだその問いかけに対する答えは明らかでした。
「見えていないのは自分だ、この人達が見ている大きな存在を自分には、見えてない、見ようとしていないんだ。」という想いが一気に沸き上がってきます。
 この想いは、まるで後ろからドンと押されて突き動かされるようなもので、心臓を握られて体中の血液が押し出されるような、魂が揺り動かされるような感覚でした。

 私はまだまだ若く、五体満足な身体が与えられている。私は「自分は駄目だ駄目だ」と決めつけてしまっている。自分が何か、とんでもなく大きく、大切なものを見落とし続けてきた、という想いがもたらされました。

 失明という逆境の中でも神様を見上げ生かされていることを讃美するお二人の姿に対して、自分は他人を羨ましがるばかりで、自分に与えられている命の尊さを見失い、自分の中の良いものを見ようともしない。ただただ自分を嘆いていることが突然とても恥ずかしことに感じられ、その自分の姿勢が自分の醜さの根っこにあることに気付かされたのです。

 そのように思わされると同時に、「この人たちが目が見えない中で希望を失わずに見つめている神様という存在のことを自分も知りたい。」「その視点から自分の人生を歩み直してみたい。」とも、強く思わされました。

 自分も、もう一度やり直したい。もう一度、この人達が見上げ、そしてこの人たち自身を支えている神様と共に。

「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである。」

(口語訳 マタイによる福音書13章14~15節)

画像は、Takeさんのものを使わせて頂いてます。

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