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キャラ、あるいはメタ認識的差異 2024/03/31の日記

この記事、少し前に読んだ田島正樹『読む哲学辞典』の「保守主義と左翼」という章でまさにまったく同じ問題が論じられていて、本当に感動した。今日はとりあえずこの問題について話題にしたいのと、田島正樹の面白さをみんなにも知って欲しいのでまずは以下に引用を示す。

左翼と右翼の対立は、単にそれぞれの主張内容の違いによるものではなく、対立があると言う者と、対立がないと言う者との間の対立であり、彼ら自身の対立についての認識視座の対立、つまりメタ認識の対立に他ならない。
祖国が直面する危機を、その政治的共同体自身の内部の問題として捉え、それ自身を、常に潜在的に亀裂や対立を内包するものと見る立場を、左翼と言う。
それに対し、祖国そのものは元来分裂を含まぬ統一体であると見なし、それゆえ、祖国の危機はもっぱら外からのもの、外敵によるものと見る立場を、右翼と言う。

田島正樹『読む哲学辞典』講談社現代文庫

先程の記事では表面的に「陰キャ」「陽キャ」の区別は単純に明るいか暗いかというモデルによって二者を区別していたが、実はそうではない。彼らの分類をもっと本質的な差異に依って線引きするならば、それはある共同体内の対立を認める者と認めない者、その認識的な差異こそが本質的に「陰キャ/陽キャ」という区分を成り立たせている。

だから「陽キャ」とは自分たちの共同体の中に気分の一体感(いわゆる「ノリ」等)を貶めるような原因がある事自体を認めない立場のことであって、実際にそれが明るいか暗いかは単に相対的なものでしかない。この記事でもまさに全ての構成員は合一のものであって、それを引き裂くのは構成員同士の生得的な性分の差異ではなく「陽キャ/陰キャ」のような分裂を促す外部の価値観だとしている(後述するが、元記事の筆者におけるこの態度は例として好都合という意味で極めて素晴らしい)。

また、だとするとこのようなメタ認知的な差異を志向するとき、それこそが「陰キャ」的な観点であることは十分にありえるし、それ故に筆者はそれを問うていない。だから「陰キャ」とは暗いというより、むしろその内的な差異を積極的に認識する者のことなのだ。

しかしながら、その区別こそが「陽キャ」にとっては決してあってならないものなのだから、それは内的には認識されず、世の中にある外的な価値観として、見当たらないこと自体に価値が置かれる。これこそが「陽キャ」の視座であり、意識せずとも行われる理念(イデオロギー)なのだ。

ここまで考えてみると、むしろこの例の方が保守主義と左翼のような区分けよりも意見的対立を「内的/外的」に認知する集団の例として明白な気がしなくもない。

なぜならこの記事にあるような学生同士の関係についての場合、両者は明確な価値やそれをバックアップする理念がない分「陰キャ」は「陽キャ」の考える合一な共同体の中に包摂されやすく、まさに最初から無いものとして透明化されやすいからである。

それにしても、この筆者の態度は素晴らしい。なぜかは既にほとんど説明したようなものだが、あえて改めて言うならば、この記事の中で筆者は「陰キャ/陽キャ」的な認識を持たないということ自体に至上の価値を置いていることにある。しかし、それこそがまさに「陽キャ」的な観念なのだ。

この筆者の素晴らしさは、まさにそこを徹底した点にあるだろう。両者の対立をまず根本から積極的に無いと言い続け、よくある「和合」や「止揚」や「脱構築」といった、対立を認めた上でそれを統一するような手法を一切試みず、厳然たる姿勢でそのような視座がまず存在しないと主張している。

それこそ本質的な「陽キャ」としてあまりにもひたむきな姿勢であり、説明する私にとっては同時に素晴らしく都合がよい。

しかしここまで考えると、さらに翻って「陽キャ」と保守主義の根本的な共通点だけでなく、両者の親和性までも十分に論じられそうだ。実際、保守主義者は陽キャが多い(急に偏見まみれの主張)。

ちなみに、最近はよく「陰キャ」の右派的政治志向の典型例として、いわゆるQアノンのようなオルタナ右翼や、あるいはまた別のもっと極端な例としてヒトラーのような国民社会主義がその中に捉えられることはあるが、この差異を考慮すれば彼らは方向性が違うだけで、むしろ特殊な左翼と呼べるだろう。「陰キャ」はどこまでも左翼的なのだ。

単に祖国を愛するだとか、私的所有をやめるかどうかみたいなもの以前に、まず根本的な意識の違いとしてのメタ認識というものが語られなくてはならない。それこそが保守主義とそれ以外を分かつ契機であり、同時に「陽キャ」とそうでないものを分かつ、避けがたい分断の轍なのだ。

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