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成功したオタクになった高校時代の私

高校生の頃、

まーーーーーーーーーーーーじで

面白い生徒の心を鷲掴みにする面白い世界史の先生がいました。

当時、高校2年生。1年生の頃はなかった世界史の授業が始まりました。中学までの歴史は日本史も世界史も分かれてなく、ざっくり歴史というまとまりでした。高校生になり、歴史が好きな私にとって、1日に日本史と世界史、両方の授業がある日は一週間で一番好きな曜日でした。反対に多くの友達は絶望溢れる顔をしていました。


世界史の授業が始まり、先生を見て一番最初に思ったことはアンジャッシュの児島さんに似ているということ。のちに本人に言ったら否定されました。だけどその否定の仕方も児島みたいで面白かったです。

その先生の何が面白いのか話しますね。

世界史に登場する夫婦って奥さんが強いパターンあるじゃないですか。具体的には覚えていませんが。その先生は自分も奥さんの尻に引かれてると自虐ネタを授業中にぶっ込んでくるんです。もう今思い出すだけでも笑えてくるネタばかりです。
昨日はシャッターを閉めなくて怒られたとか電気を消せとパシられたとか。

そして私はなんとかしてこの面白い先生と仲良くなりたい!と思いました。

そこで私は先生に認知をもらう方法を考え、二つ候補がでました。一つ目は、ただひたすら毎時間授業終わりに先生に話しかけ、勉強熱心な生徒と認知してもらうこと。二つ目は、テストで学年一位になり私の名前を先生に覚えてもらう。この二つでした。

しかし、私の面、そして話し方からすると勉強熱心な生徒という立ち位置は難しいものでした。そこで私は、あまり勉強は得意ではないけれど歴史は好きというところから世界史で一位を取ることを決心しました。

方法を決めた私は、そのあと認知されるために必死でした。

授業中はプリントに隙間がないくらいメモを取ります。普段重くて持ち帰ることのない分厚い教科書も授業があった日には毎回持ち帰り教科書に穴が開くくらい読み、声が枯れるくらい音読をしました。そして、今まで授業中の暇つぶしとしての最高の相棒、資料集もテスト期間は蛍光ペンで線を引いたり書き込んだり、ただでさえフルカラーの資料集が私の書き込みによってより鮮やかになりました。

そして、最初のテストの結果は86点とかでした。他の教科に比べたらかなりいい点数です。普段の私だったらその点数に大喜び、帰り道きっとハーゲンダッツを全種類買って帰ると思います。しかし私は他の子達みたいに良い点数を取り、評定平均を上げるために世界史を頑張っているのではないです。そう、学年一位になり先生に認知をもらうために頑張っているのです。なので私はまだまだ頑張ります。

その後二回のテストで私は90点台の点数を取りました。しかし私は納得がいきません。なぜなら学年一位ではないからです。周りの友達も90点をとって悔しがる私を不思議な目で見ていました。

そして季節は巡り二学期の期末テストの季節がやってきました。私の学校では三学期のテストは一回しかないため私が先生に認知されるためのタイムリミットも迫っています。

そろそろ学年一位を取らなければならないと私のシャーペンを持つ手も冬なのに汗ばみます。

アブデュルハミト2世、クー=クラックス=クラン、トゥサン=ルヴェルチュール、

こんなの一生つかわねぇよ…

と思いつつも、先生は絶対にこういう間違えそうな単語が好きなので、テストで絶対間違えないように何度もノートに書きました。硬筆をしているわけでもないのに私の右手の小指は爪先から手首にかけて真っ黒です。

いざテストの日が来ました。私の気合いはバッチリです。テスト期間は他の教科を捨て世界史に全ての労力を注ぎました。
テスト前、ストーブの前に集まり教科書を読んでいる子、友達と問題を出し合っている子、テスト中お腹が鳴らないために廊下でおにぎりを食べている子、みんなそれぞれの過ごし方をする中、私は席に着き、朝間違えた問題をまとめたノートを何度も目で追います。普段仲の良い友達も私の殺気溢れる姿を見て誰1人近づきません。

テスト用紙が配られチャイムがなるまで時計の秒針を見つめます。その間私は単語を忘れないようにホイッグ党、トーリー党何度も頭の中で唱えます。

その結果、





学年一位にはなれませんでした。


そうです。私の学年には毎回世界史で100点をとる猛者がいたのです。私の点数は96点。悔しくて今でもなんの問題を間違えたか覚えています。一つ目は年号の四択問題、もう一つはじゃかいも飢饉の飢饉という漢字を書けずマイナス一点。あとはシンプルに一問答えがわからずマイナス一点。

友達はクラス一位になれたからいいと励ましてくれました。しかし私が求めているのは学年一位です。

この一件が悔しくなり私の世界史熱はもっとフィーバーするかと思えば違います。この面白い先生の授業を受けられればいいやと、厚かましいオタクを卒業することを決心しました。

オタ卒をした私にとって運がいいのかわかりませんが、3年生の世界史も先生でした。私のことを覚えているかも分からず授業を受けました。そして、他の教科よりも少し気合を入れて勉強しテストを受けました。

そう私も受験生です。2年生の頃の世界史熱溢れる私は受験生という言葉と共に消えました。


時は流れ3年生の世界史最後の授業。そこで私はタイトル通り成功したオタクになりました。

最後の授業ということでその時間は確かテスト返却の時間でした。そして最後、先生はテストの振り返りと授業の思い出話をし始めました。

「あぁー、(私の苗字)は2年生の最初の方の授業で授業プリントを忘れたんだよ〜。だからテストで80点以上とったら授業プリントのお金は取らないって言ったんだよ〜。言ったよね?(私の苗字)?」


そうです。私は世界史のテストでいい点数をとりたいが余り、家にプリントを忘れてしまったのです。しかも最初の方の授業で。

もう最悪だこれじゃあ0からのスタートがマイナスからのスタートになってしまうあぁ最悪最悪

と思いつつも私は素直に自首しました。そしたら先生は

「えぇーじゃあ1000円ね〜(多分1000円か一万円だった気がする)でもテストで80点以上とったらチャラにしてあげる」

と言いながら私にプリントをくれました。

一年以上も前のこと、しかも私がまだテストを一回も受けていない頃の話をしたのです。
そして一番衝撃だったことは私が80点以上をとったことを覚えていたことです。何百人という生徒を教えている中、一年以上前のことを覚えてくれている先生でした。しかし、その話をクラスのみんながいる前でしたことにより私が頭いいことがクラス中にバレてしまいました。

このように、長い時間はかかりましたが私は成功したオタクになりました。

しかし、残念ながらそんな余韻も長くは続きません。授業後、ふと思いました。

じゃあ私が先生に認知されるため、学年一位を目指しテスト勉強を頑張ったのはなんだったのか、プリントを忘れた方が認知されるのか?と

成功したオタクになれましたがそれは自分が思い描くルートではありませんでした。

一個前でゴッホのnoteを出しているように高校を卒業し、大学生になった私は美術史にハマっています。西洋美術が好きなので本やYouTubeでその絵画の背景をみることもあります。そこには散々先生に認知されるために覚えた単語、ハプスブルク家、メディチ家、ブルボン朝、ルイ○世、ザクセン公とか山ほどでてきます。

先生に認知されるためという不純な理由で始めた世界史の勉強も今の自分に繋がっていてなんだかいいですね。

しかし、アブデュルハミト2世、クー=クラックス=クラン、トゥサン=ルヴェルチュール、一生懸命覚えた長い単語は何一つ覚えてなく、久々にテストの回答用紙を見て思い出しました。残念なことに何をした人か、どんな政策だったかは何一つ思い出せません。

先生ごめんなさい。やっぱり先生の自虐ネタの方が鮮明に残っています。


そして最後に、貴重な一点を落としたじゃがいも飢饉を書いてみました。

どうか先生がこのnoteを見ませんように

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