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英語の教科書が「まぼろしインターナショナルスクール」になってしまう理由

語学の教材、それも初心者向けのものは、厳格な階段が用意されます。

階段? そうです。英語の初級教材では、最初に「Hi.」とか「Hello.」とかのあいさつで始まって、次に「I am Taro.」「I am Ellen.」になって、疑問文の「Are you Japanese?」「Yes, I am.」が出てきますよね。いわゆる be動詞 の文です。その次に 一般動詞 の文での会話がデビュー。「Do you like green?」「Yes, I do.」とかの会話になっていって、

それに続いて「Who is this?」「This is my father.」のように疑問詞を使った疑問文を習って、その後「I am reading a book.」とかの現在進行形の文を習い、「We can skate there.」のような「can」文を教わって、そしてようやく「I saw a movie.」などの過去形の文を習っていく…まさに階段を上っていくようにして be動詞での会話 → 一般動詞での会話 → 疑問詞での会話 → 現在進行形での会話 → canを使っての会話 → 過去形語り がカリキュラム化されているわけです。

ここで気を付けてほしいことがあります。こうやって階段を上っていくとともに表現の幅が広がっていく…わけではないという事実を、です。

たとえば現在進行形には、実は用法が二つあります。「I'm running around the tree.」は「木のまわりを今、走り続けている」ですが、もし少しだけ加筆して「I'm running around the tree soon.」といじると「もうじき木のまわりを走ることになっている」とも取れるのですよ。

どちらが正しいかは文脈次第です。しかし初心者にそういう教え方をすると「どう判断したらいいの?」とか「めんどくさい」とか言い出すにきまっているので、たいていの教材では「走り続けている」のほうの英文しか載せないことになっています。

この親心は、むしろ裏目に出ます。学習者は「"ing" ときたら "~ている" と訳せばいいんだな」と思い込んでしまうせいで、「~ている」ときたらなんでもかんでも ing で訳してしまうのです。

例を挙げましょう。「あなたは柔道部に入っているの?」を英語で言ってみてと生徒に尋ねると、成績優秀な子でも「Are you going into judo club?」とか答えてきて orz です。「入っている」を機械的に「going into」にしてしまうのですよ。

正解は「Are you in the judo club?」です。ing の出番なんてナッシング。

どうして毎年こういう orz なやり取りが授業で繰り返されてしまうのかというと、生徒たちは日本語の「~ている」に用法がいくつもあることを知らないからです。母語なのでいちいちそういうことを気に留めない。そういうわけで「柔道部に入っている」の「~ている」は、「木のまわりを走っている」の「~ている」とは別ものだと判断できなくて、それで変な英訳をしてしまうのです。「Are you going into judo club?」って。

これはむしろ国語の授業の範疇なのですが、国語科ではそういうことをいちいち教えていないので、そのツケが英語科にまわってきて、そして生徒たちは英語の授業のほうで大やけどを負うのです。正解は「Are you in the judo club?」だよって教えてあげても目がテンになって、拒絶反応を示してきたりします。

飛行機の操縦に慣れたひとに、宇宙船の操縦法を教えるような感じでしょうか。これは比喩ですが、宇宙船を操るときは、右に曲がるときは左に舵を切るし、速度を上げるときは逆噴射するのが基本です。あくまで比喩ですが、そういうものです。飛行機の操縦に慣れた方が、かえって宇宙船の操縦には戸惑ってしまう理由はここです。日本語に慣れた方は、ほかの言語の操縦法を習っても、勝手が違うので戸惑ってしまうのも、この逸話に通ずるように感じます。

子どもたちをそういう痛めに遭わせるのはかわいそうということで、学校英語教科書の英文は、かなりぎこちないものになっています。日本語の操縦法でなんとかなるような英文が選ばれているのです。そういうもので稽古を積み続けると、日本語の操縦法から脱することができないわけで、かえって生徒たちの将来を損なってしまうと私は思うのですが、それはいっちゃいけない台詞になっています日本の英語教育界。

このあたりのズルというか裂け目をうまく覆い隠すために、英語教科書は必ず青春ストーリー仕立てになっています。そしてストーリーの舞台はきまってインターナショナルスクール風。かっこいい設定と、しゃれたイラストで歪みを隠蔽し続けるのです。

生徒たちはやがてこのまぼろしスクールのうさん臭さに気づいていきます。そこに提示されるのが副教材。ワークブックですよ。そこにはクールでスマートな青春ストーリーも、社会科臭い小ネタの類もいっさいなくて、たとえば「I am Japanese.」を疑問文にしましょうという課題があったら「Are you Japanese?」、「You are Japanese.」だったら「Are you Japanese?」、「She is Japanese.」だったら「Is she Japanese?」と変形パターンがあって、そのパターンは九九の暗記に比べれば格段に少ないしラクだから反復練習して反射神経を磨けばいいんだと生徒たちはワークブックを演習しながら気づき、それに順応していくのです。ワークブックはそういう裏メッセージを生徒たちに伝える役目を担っているともいえます。

「メディアはメッセージである」 マクルーハンはうまいこと言いますね。教科書というメディアと、ワークブックというメディアは、どちらも英語教材なのだけど違うメッセージを生徒たちに伝えているのです。

こうして学校で習う英語は本当のイングリッシュではなく、何か別のものだと生徒たちは悟っていきます。それはそのまま演技性を育むことでもあります。街でガイジンに話しかけられるとパニックをおこしてしまうのは、そういう演技性で英語の授業や試験をかいくぐってきた自分の欺瞞さを、ホンモノさんから見透かされる恐怖と恥ずかしさからだとみます。


演技性… 手塚治虫の『ジャングル大帝』を思い出します。アフリカのジャングルの奥地に、ライオンの王子さまがあらゆる獣たちを従えて王国を作り上げるお話です。昭和25年に連載開始、29年に完結。アメリカ統治チームが日本を去って日本が主権を取り戻し、民主主義の理想を保とうとするも国内外でのさまざまなリアルに揺さぶられていくなか、ディズニーアニメみたいなおとぎのアフリカを舞台に、ライオンが草食動物たちに王子さまと慕われる様は、今の英語教科書をいろどるまぼろしインターナショナルスクールのルーツという気がします。

日本の初等英語教育は、敗戦を味わった日本におけるデモクラシー教育とパラレル関係にあります。誰もが平等に教育機会を与えられ、皆がいっしょに習っていけば、皆がひとしく英語ができるようになっていく…むろんそんなの無茶な話です。どんなに整理された英語教材をあてがったところで、早かれ遅かれ生徒たちは気づきます、「ああこれは何か裏があるんだな」「何か舞台劇の素人俳優になりきって、その役をステージ上で務めれば拍手を貰えるわけね」と。

『ジャングル大帝』の野獣たちが、森のなかではみんな仲良しごっこしている様が重なってみえます。

肉食獣と草食獣が、サバンナの生き物とジャングルの生き物が、どうしていっしょにいるんだっ!みたいないちゃもんをつけるのは野暮の極み。手塚流のアメリカン民主主義&平和国家ジャパンの具象化 by なんちゃってディズニーアニメーション!

こういう理想が輝いた時代があったのですね。それがその後いろいろな時代の荒波のなか、理想と現実を折り合わせる場 ー まさにお芝居 ー として中学英語教科書は機能し続け、今に至っています。


これは長い長いお話になるので、後日また取り上げていきます。


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