見出し画像

数学科の地獄門「テンソル積」について

私は数学科の出ではありません。どちらかというと物理学科寄りです。どうして「寄り」などというあいまいな書き方をするのかというと、厳密には物理学科卒ではないからです。人生いろいろと今は述べるに留めます。

数学は事実上独学でした。図書館で見かけたいろいろな書物、とりわけシリーズものを必死に読みこんで、ど根性で全体像をつかんでいったのです。

私が「テンソル積」を知ったのは、数学ではなく重力理論絡みででした。重力理論なんていうとSFちっくですが要は一般相対論です。これも独習でした。コンビニに置いてあるようなプチ教養本ではなく本格的なものを使いました。とにかく全体像をつかみたいという方向けのものは、割とわかりやすいのですよ一般相対論。コンビニ受けのいいソフトカバー本が今も量産されているくらいですからね。しかし数学を駆使して語っていく系の本は、まるで数学の書物のように数学していて、これが本当に同じ主題の書物なのかと驚かされました。なんかしらんけど「⊗」がぎょうさんでてくるのです。

この記号をぎょうさん使う数学を「テンソル積」といいます。積とあることから察しがつくでしょうが「⊗」は積のことです。かけ算。2×3は6というときの「×」の、もっとおっかないバージョンです。

そもそもテンソルってなんでしょう。入門書にあたるときまって「テンソルは行列ではない」と注意書きがあります。私もそう自戒していたのですが、どう考えても行列やないのー?と思えてしかたがないのでした。そのうちめんどくさくなって、テンソル積の入門書を読むとき、たとえば「V ⊗ W」とあったら頭の中で「この V と W は行列なんや」と翻訳しながら読み進みました。視覚化すると以下のように。

赤の面が「V」という行列で、白の面が「W」行列、そして青の面が基底ベクトルの積なんやーと。

もし「V ⊗ W ⊗ Y」とあったら、四次元の立方体のことなんやーと翻訳するわけです。「三次元立方体に、次元がもうひとつ増えた立方体やねんな」と。

そうだとすると上のルービックキューブにおける青の面が立方体(つまり三次元)になるわけだから、基底ベクトルの積(「v ⊗ w」みたいなの)も三次元化して「v ⊗ w ⊗ y」みたいな形式になるなーと楽々イメージできます。

回転しない超次元ルービックキューブと思えば、別に難しくはないわけです。

それなのに数学書はきまって「テンソルは行列やあらへん」と強弁するのですよ。どうしてなんだろうと不思議がりながら、私は数学科レベルの数学を独りで登っていきました。

位相空間論にまで手を広げて、とにかく本の最終頁まで読み切って、その後思索するうちに、謎は解けました。現代数学が集合論をすべての出発点に置いているという話は、数学好きの方なら聞きかじっていると思います。私たちが小学校に入って算数を習いだすと、最初に学ぶのは「数える」ことでした。やがて「比べる」を習います。誰それは誰それより背が高い、低いは「比べる」の一番わかりやすい例です。この二つは中学高校大学入試まで一貫して数学の基本であり続けます。ところが大学以上の数学においては「数える」「比べる」がやがて基礎石でなくなっていくのです。最終的にはこんな世界に到達します。

ここではもはや「数える」も「比べる」も消え失せています。あるのは「集合」と「写像」のペアです。このペアを組み合わせれば、どんな数学も組み立てられる…そう教わるのです。

どういう理屈なんだ?と思われるでしょうが語ると超長くなるので省略。このペアを駆使すれば「距離」を定義できます。「距離」が定義できれば「実数」を定義できます。「実数」を定義できれば「虚数」を定義できて、「複素数」を構成できます。「複素数」を生み出せるならば、そこから三角関数を産みだせて、幾何空間を生み出せます。だんだんと小学校の算数の、さいしょのじゅぎょうにさかのぼっていくわけです。

大学以上で学ぶ数学を「現代数学」と総称するならば、そのなかの難所「テンソル積」は、「集合」「写像」ペアの統べる究極シンプル世界への旅の一里塚。「行列」は数が縦と横にならぶマトリクス、つまり「数える」を基礎石としています。現代数学は「数える」を根拠に置かない論理体系ですので、「行列」という名称もイメージも、ある段階から上になると学生をこれからなるべく遠ざけたいのです。

日本の国会で「我が国の軍事力」と口にすると「お前憲法違反やぞその発言!」と袋叩きにあうので「我が国の防衛力」と言わないといけないというのと何だか似てますね。現代数学の憲法は、日本国憲法よりはるかにシンプルで、かつ厳格です。そのせいでことば遣いについても縛りが厳しいのです。「ガキじゃあるまいし行列っていうなそこはテンソルと言え」みたいな。

断わっておくと「行列」が御法度だってことではないです。時と場合を考えんかい!な縛りです。「『線型性』が絡むときは『行列』っていうな『テンソル』と呼べ」みたいな縛り。(線型性についての解説はまた長くなるので後の機会に) ちなみに「テンソル積」の概念の初出は、調べてみたら1938年。位相多様体とかコホモロジーとかのおっかなげな新ジャンル誕生の文脈から生まれてきたものでした。

ちなみに一般相対論の、後に「宇宙の方程式」と呼ばれることになる方程式をアインシュタインが世に問うたのは 1915年。彼がこの方程式を導出するにあたってテンソル積を使っていないことは確実です。なにしろその頃には発明されていなかったのだから。(彼はあくまで「テンソル解析」を使った!)

ニュートンの力学を学ぶとき、いろいろな方程式が出てきますが、彼自身はそうした方程式は使っていませんでした。微積が現代の形に整うのは、彼の死後です。つまり私たちが習うニュートン力学は、本当はニュートンの力学ではないのです。

物理学と違って数学は、こうした史学的視点にはどこか無頓着なところがありますね。科学が実験や観察や検証を必ず伴うのに対し、数学は徹底して抽象的思考&論理で再構成されていくぶん、その途中の過程について史的に語る作業をどこか見下している気がします。そのツケは初学者にしわ寄せされて、挫折者を終わりなく量産するのです。「これがわからないのは自分に数学の才能がないからなのだ」と自分に言い聞かせて去っていく学生たちを、えんえんと生み出し続け、この不条理に耐え抜いたものを「お前才能ある」と迎え入れる、この奇態。

数学という学問全体でブラック企業に成り下がっている…そんな気さえする今日この頃です。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?