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コミックストリップは短気者のために生まれた説

先日、こんなのを書き下ろしました。

書き上げたときはいいものを書き上げた気になっていたのですが、その後少し時間を置いてから目を通すと、途中で「なげーんだよ話がよぉ」と校長先生のお話に苛立つ中2病が私の中で生じてきたのにはとまどいました。

Note での書きものをするようになって感じたのは、他の方もきっとそうでしょうが私はとにかく画像に目が先に行くのですよ。まんがを読むときの目線の動きみたいな感じ。

まんがの視線誘導って、こんな風です。これは「天使の3P」というまんが。


このページのなかには、こういう見えないベクトルが仕込まれています。

右下で「ガチャン」という擬音が、なぜか💭で処理されていますね。もしこの💭がなかったら、赤の矢印(視線の動き)が画面右端まで進まなくて、跳ね返りが弱くなっていたと思います。

まんが読者は💭があったらその中身に関係なく目線をとにかくそこに流していきます。「ガチャン」とあって、💭の右端が尖がっていることから、物音はこの枠のアウト右側からだと見てわかります。視線は枠よりもっと右に行こうとするけれど行きようがないので、この男の子の顔に跳ね返ってきます。

さらに次のページに、こんな風に目線が送られていく。

おお巧いうまい。さらにこの後、この赤のベクトルは「ぴたっ」を経由して女の子のお尻に流れて、次に右下斜め方向に送られて「ふむふむ」な顔に引き継がれる… こういう技は日本で磨き上げられたものです。今では世界各国のコミックスで見かけるようになっていますが、その突出ぶりはやはり日本のまんがならではですね。

コミックストリップは、私なりに定義すると「テキストの挿絵扱いだったものが主役に転じながらも、テキストが王様という建前は維持されたもの」です。

1918年掲載。これよりもっと前のコミックストリップでは、各コマの下か、少なくともページトップに何かキャプションがあって、各絵はその挿絵という建前でした。この頃になるとキャプションは消えて、コマの端に数字が記され、キャプションの代わりに台詞の体裁で💭にテキストが描きこまれています。これはすなわち、各コマは挿絵の体裁をなおも維持しているということです。テキストを「読む」体裁で、ことが回っているのですよ。

日本の現代のまんがに慣れた目にはなんだかまだるっこしく感じられます。私のこれも、それに類するまだるっこしさを、読んでいて感じます。

具体的には、このあたり。


挟まれた画像を目で追っていけば、論の概要がなんとなくわかるようなものがいいのかな…と考え中。

テキストは後でじっくり読めばよろしい、みたいな。

戦時下でまんがをひたすら描き続けていた、ミドルティーンの手塚治虫も、こんなことを思いながらひたすらまんがを描いていて、そして幼年期の終りと自分の命の終わりと国の終わりの三つを一度に味わうなか、視線誘導のこうした技をコミックストリップの斬新な技法、いや今でいうウィンドウズやアンドロイドに匹敵するまんが OS にまで高めていたのかと想像すると、いろいろ気づきがありますね。

1945年春頃に描かれたか


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