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あなたはどうして『銀河鉄道999』に感動してしまったのか?

松本先生が亡くなられた報は私にも少なからずショックでした。自分もまたあの列車に乗ってみたいと思ったことがある日本の子どものひとりだったこと、そしてその夢を中2のとき、四国で客車列車にたまたま乗り合わせて、窓を開けると漆黒の闇、線路際だけが車内からの光で浮かび上がる。「ああ、乗ってる。乗ってる!」と木造作りの車内で、ひとりきり思ったのでした。ポケットには青春18きっぷ。その時の旅の記録を、画像付きで旅行記として仕上げて夏休みの自由研究課題として学校に提出して、9月中に金賞をいただいたのが懐かしいです。「保護者なしで一人旅するなんて!」と職員室では言われていたようですけどね。

ところで数日前から一週間限定で東映が映画のほうの『銀河鉄道999』を無料配信しています。

昭和54年の夏封切りですか。調べてみたら同じ頃に『スーパーマン』がアメリカより一年遅れで日本公開されています。あれもどこか青春映画の香りがする物語でした。

宇宙青春映画なんてジャンルがあるのかどうかわかりませんが、『999』はそれに属するものだと思います。青春映画は実写だとほんの数年で見るに堪えないものになってしまうのが常です。「うわっだっさい髪型!」とか目を逸らしたくなったり。アニメで宇宙ものだと、そういうわずらわしい時の刻印を比較的免れるぶん、時を経てもそれなりに感動できてしまいます。映画版『999』(1979年)もそれです。ゴダイゴの「Taking off!」もあの主題歌も、流行り歌に留まらない、映画音楽として秀逸なものだと思います。主題歌については先日ざっと分析したので、今回は映画のほうをざっと分析してみましょう。

松本長編まんがは基本設定がかなり緩いところがあります。『999』もそうです。主人公の少年がどうして銀河超特急に乗らねばならないのか、そもそもの動機付けや目的がゆるゆるです。母親を機械人に殺害され剥製にされたから?第一話で彼はこの機械人たちをとっとと抹殺してみせているので、復讐のために999に乗ろうとしたわけではないですよね。

メーテルに拾われて、いきなり超特急999の切符を突き付けられて「いっしょに行くのよ」と切り出されて、第二話で出発。うろ覚えで書いているのでもし違っていたらすみません。こんな風に鉄郎くんはなりゆきで宇宙の旅に出るのです原作では。

映画化にあたって、脚本家さんは原作まんがをわたされて「なんじゃこりゃ、同じところをえんえん回り続ける話やないか」と言ってはならぬことを言った(少なくとも思った)とかなんとか。松本作品は大河ものほど基本設定が緩くなります。資質的には短編の方です。メーテルの正体は人さらいで、機械帝国の中枢を支えるためには根性のある少年を生きたネジに改造して取り込まないといけないので、そういう根性のある少年に育ちそうな少年を冒険旅行に導いて根性を育ませて最後にネジにする…こうやって要約するとずいぶんAHOな話だなーって思いますね。ネジ一本調達するのに銀河の旅を繰り返すなんて、非効率極まりない。こんなおつかいを娘に言いつける母親の顔が見たいわ! みたいな。こういうわけのわからないお話を二時間の長編感動青春映画にしろと言われたら、私でも「あんた私をバカにしてるわけ?」と食ってかからないとは言い切れない気がします。

ここから先は想像です。脚本家さんもきっと同じことを思い「あほらしいからやらない」と嫌がったらPや監督さんから「そこをなんとか」と泣きつかれて、しかたなく受けたのでしょう。やれやれ宇宙海賊だの永遠の命だの、こんなものの話の整合性を保つのどうせ無理だから、そういうのはすべてぶん投げて、主人公の旅の目的をはっきりさせることに専念しようそうしようと割り切ったのです。原作まんがでは「終着駅にいけば機械の体を無償提供してくれるというので行くんだ」と主人公は言うけれど、貴様は母親を機械化人に殺されていたんでないのか、いくら復讐は果たしたといってもその後自分の機械化を夢見るのはおかしくないか?そんな風に原作の鉄郎を問い詰めていったのですきっと。

この執拗な尋問の末に、原作の鉄郎と同じ魂を持ちながら、もっと一貫性のある、それと共に思春期化もされた主人公が立ち現れてきました。彼が999に乗りたいと願うまでの道筋が、回想シーン(眠っているひとの夢を視覚化する装置という設定が心憎い!)や、目覚めた後のメーテルとの会話を通して明確に説明されていくのです。①機械化人(物語世界においては支配階級と同義)が憎い、②機械化人の統べるこの地球から脱出したい、③母を殺した機械化人をこの手で成敗したい、④宇宙を舞台に自由になりたい、宇宙海賊たちのように、⑤そのうえ永遠の命を得られれば、永遠に自由だ!

メーテルが999の乗車券をくれます。どうして彼にくれるかというと、それは人さらいだからなのですが、物語冒頭でそれを明かしては物語が台無しなので、違う理由が彼(そして観客)には提示されます。「ボディガードが欲しいから」と。ちなみに劇中では「一人旅では心細いからあなたに連れていってほしい」と笑顔でした。この台詞はうろ覚えです。鉄郎の自尊心を損なわないよう、お願いポーズでこう切り出す。鉄郎くんは基本的に単細胞頭だからさっさとこれにのってしまうの。そのぶん観客には感情移入もしやすくなるし。脚本家さん巧い。

999出発! ②機械化人の統べるこの地球から脱出したい、という夢がこれで果たされます。③母を殺した機械化人をこの手で成敗したい、この夢を果たそうと鉄郎は、母殺しの罪人・機械伯爵の行方を捜します。彼の旅は、この行方探しが軸になるわけです。メーテル誘拐と奪還の冒険をとおして、山賊アンタレスが味方になってくれます。伯爵の行方を知っているのは山賊の自分ではなく海賊のあいつだと告げられます。女海賊さん。その後、旅の途中で彼女の船が999とニアミスする事件があって、それをきっかけに彼女と面識ができて、伯爵のいる星を教わって、その星に着いて今度は酒場のマスター(ゴシップの生き字引と劇中で自己紹介する)から「あいつなら知っている」と教わってその人物に会いに荒野を暴走し、伯爵の具体的な居場所を教わるのと入れ替わりにこの人物は死去。その魂が、とある宇宙海賊の船の電子頭脳に飛びこむ。この二人は無二の親友で、この縁から海賊さんが鉄郎の味方になってくれる。ハーロックですね、十三代石川五右衛門と同じ声で話される方。④宇宙を舞台に自由になりたい、宇宙海賊たちのように という鉄郎の夢というかロールモデルそのひとです。それが味方になってくれる。そして問いかける。「ゆくのか、どうしても」 母の敵討ちのことです。③母を殺した機械化人をこの手で成敗したい この夢をその後鉄郎が果たすと、再びハーロックが問い掛ける。「これでお前の目的は果たしたことになるな」 すると鉄郎が言い返すのです。もっと目的が今の自分にはあると。終着駅まで行って、こんな悲劇の源となってる帝国の中枢を、できれば自分の手で破壊してしまいたいと。

⑤永遠の命を得られれば、永遠に自由だ! という夢がこのとき放棄されるのです。残る夢は ①機械化人(物語世界においては支配階級と同義)が憎い。これを果たすために、銀河鉄道の旅を自分は続けるぞと宣言するわけです。④宇宙を舞台に自由になりたい、宇宙海賊たちのように という夢と①が融合しています。終着駅である惑星メーテルに、海賊ハーロックが赴いて彼のために一肌脱ぐ決心をしたのも、この①と④が融合したゆえですね。親友の墓を作ってくれた恩人が、それほどの覚悟で赴くのなら加勢するのが真の男ではないか、と。もうひとりの海賊さんがさらに加勢する理由もしっかり描かれます。鉄郎が死を見とった人物は、ハーロックの親友というだけでなく彼女の彼氏。亡き彼氏のためにも、鉄郎くんは意地でも守ってやらねばなるまいという女海賊の男気!

こんな風に、鉄郎の旅の目的がだんだんひとつに絞られていくと共に、皆(とりわけ森雪の声で喋るガラス美女クレアがけなげすぎる…)が加勢していく、そういう構造で脚本が練られています。ほかの不整合については「宇宙だから」でぶん投げて、この一本筋は通すのです。

こうして映画『銀河鉄道999』は、原作まんがの様々な穴や欠陥を埋める…とはいかないけれど背骨はしっかりしたものにブラシュアップされたのです。

細かいことは気にしない気にしない。宇宙冒険ものの一大画期作『スター・ウォーズ』からして、主人公ルークが宇宙英雄の道を歩みだすきっかけも設定も、非常に緩いものでした。もしあのロボットくんが砂漠の変な民につかまることなく予定通り老賢者オビ・ワンのもとにたどり着いていたら、ルーク抜きであの冒険物語が繰り広げられていたことになります。彼が銀河ヒーローの道を歩むよう、あらかじめ作者によっておぜん立てされているのです。こういうのを「神の手」といいます。この手をいかに巧く、見えないようにするかが冒険活劇の基本だと喝破したのは宮崎駿でした。『カリオストロの城』(奇しくも『999』と同年、五か月遅れで公開)は『スター・ウォーズ』のこうした欠陥への、彼からの批評でもありました。それでいて『カリ城』でやはり『スター・ウォーズ』と同じ神の手がちらっちらっと見えてしまっているのはご愛敬。

その分析は別の機会に譲るとして、この『999』はというと、神の手をどう巧く見えなくするかよりも、主人公の旅の動機と目的にフォーカスして整合性を保ち、ほかの諸々についてはメーテルの悲劇さに昇華させてしまう、そういう脚本だったといえると思います。


石森史郎先生、お疲れ様でした!

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