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「キャラクター」とは何か - インクと紙からAIアルゴリズムへ
「キャラクターとは何か - 響きの神話と描かれた英雄たち」の続きを語っていきましょう。
表現を英語では expression といいます。express という動詞を名詞にしたものです。express は動詞であるからには主語が必ずあります。この動詞の主語は主体的な存在、すなわち人格を持つものとなります。
しかし今や人格を有さない、ただのアルゴリズムの複合体であるところの Artificial Intelligence が指数関数的進歩を経て、質疑応答のレベルに留まらない、もはや expression と呼んでいいものをあっというまに response してみせる世の中となりました。
ChatGPTほかいろいろなAIには「人格」があるのでしょうか?前にGPTにそれを問いただしたところ「そういうものを私は持っておりません」と言われました。はっきり「私」と主語を特定してのこのレスポンスは、非常に哲学的思索を私にさそうものでもありました。
このことは何よりキャラクターを考える上で非常に示唆的です。ミッキーマウスの頃までは、架空キャラクターがまるで自律的人格を有するかのように大衆に受け入れられていく様について「それは作者の血肉の一部であり人格の反映である」と理屈付けられていました。ところがミッキーのデビュー(1928年)よりわずか十年後、スーパーマンがコミック雑誌の創造とともに参上(1938年)し、さらに後になって作者コンビがこれのあらゆるフランチャイズより永久追放されたことでこの仮想英雄は、それまでの「キャラクターは作者の血肉の一部であり人格の反映である」理論からとうとう完全に離れてしまったのでした。
金との兌換が行われなくてもドル紙幣は価値を失わなかったように、コミックスやアニメ―テッドカトゥーンのキャラクターたちは、作者誰それに頼らずに「人格」の存在を大衆には受け入れられるようになったのです。
このことを今の私たちは何の疑問も抱かないでいますが、よく考えたら倒錯の極みといっていい事態です。
対話型AIの大衆化は、今まで私たちがいつのまにかなじんでしまったこのような事態が、実はどれほど倒錯した事態であったのかを、今になって思い出させてくれます。少なくとも私はそういう目で ChatGPT の出現を眺めています。
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