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映画Perfect days を観て

僕は、僕のことを映画好きとは名乗れないと思う。何を隠そう、きちんと映画を見始めたのは大学に入ってからであるし、本数も300本くらいだと思う。(Mさん、映画の良さを教えてくれてありがとう) 映画の文脈理解をしっかりして千本くらい見たらやっと映画好きって公言してもいいかなと思っています。人生の中でまだまだ自分のものになっていない映画、絵画、文学が沢山あるということは幸せなことですね。

映画を観る時、パッと決めることができないし、見たい映画であればあるほど先送りにしてしまう。でも、今回こそは、このタイミングで観て良かったと思いました。あとやっぱりしっかり映画館でみるのはいいです。

———————————————————————————————————————ヴェンダース監督、Perfect Days、いやあ本当に良かった。存在が、じんわりと肯定されていくような、満たされていくような作品でした。
これを外国監督が撮ったのか、いやヴェンダースだからこそ撮れたのだ、と思った。彼は天才です。

日常の美、あるいは日本的ユートピア

Perfect Daysは、役所公司演じるトイレ清掃員の平山の、ほとんど理想的に丁寧な生活と日常に光を当てた作品である。

東京の下町(おそらく浅草の近く)木造の2階建アパートで決まった時間に目を覚まし、顔を洗い、丁寧に髭を剃り、植物に水をあげる。丁寧に陳列された鍵と小銭をポケットに入れ、コーヒーを買って車に乗り込み、都内にあるトイレを回っていく。そして仕事が終わると銭湯に行き、浅草行きつけの酒屋や本屋に寄って、本を読みながら静かに、しかし幸せに眠りに落ちる。

その行為一つ一つが美しくて、幸せに満ちている。高級な車やディナー、タワーマンションさえなくとも、彼の6畳ほどの部屋には彼の好きな本、音楽、フィルムカメラがあり、何より豊かに流れる生活がある。そしてそれはこの消費社会の中においてこそとても目立ったメッセージとして輝く。見ていて、家のキッチンの水回りの掃除が無性にしたくなりました笑。僕はそんなに掃除が得意ではないがきちんと畳まれた服と綺麗なベッドはそのプロセスも含めて豊かですよね。

大学の美学(Aesthetics)の授業で、日本の美について取り上げられていたことを思い出しました。カント的な快や喜びにフォーカスしたような、またはニーチェの扱った英雄的な物語を中心としたものとは別の文脈で、日本には日常美というものがある(Saito, 2017)。

それは謙虚的であり、日常に向けられる眼差しである、と見ていて感じました。主人公の平山が対象を思いやり丁寧に生きていく様。植物を思いやり、隅々まで心を込めて掃除をし、目があった人には冷たくされようとも微笑みかける。なぜか。作品内で暗示されているように彼はもともと社会的に成功しており、彼が「意図的に」この資本主義ゲームから半分抜けているからである。それはジャズやポップ、小説など文化資本を多く持つこと、また姉の乗っている車や服装から推測できる。付け加えるならばこの映画ではトイレがモチーフにはなっているものの、汚いもの、例えば排泄シーンや吐瀉物は一切登場しない。まるでホテルの布団を畳むように平山はトイレを優雅に掃除していく。そういった意味でこの映画自体がある種のユートピアであるようにも感じられた。これは批判すべきなのか賛同なのかはわからない、のでもう少し考えたいです。

一人一人の世界

また、平山と姪のニコちゃんとのシーンも印象に残っています。両親と喧嘩し、叔父である平山のところに転がり込んできたニコちゃんとの会話。

平山「この世界は、本当はたくさんの世界がある。繋がっているように見えても繋がってない世界がある」
Niko「私はどっち?どっちの世界にいるの?」

同じ東京で生活していたとしても、友人であっても、あるいは血が繋がっていたとしても、それぞれの世界は完全には繋がっていない。ユクスキュルの環世界のように、それぞれは独立していて完全に同一化することはない。完全に理解し合うことが不可能なように。だからこそ、相手を思って行動することが大切だ、と監督は言いたかったのではないか、そう感じました。

虚構とリアリティのバランス

最後に、監督の作品インタビューから。このインタビューがまた、映像も含め本当に美しいので是非見てみてください。

映画という虚構の中でどれだけリアリティを保ち、観客が入り込むことを促せるか。彼曰く、プロットは形だけである程度まで行けば役者の好きにさせるらしいです。なのでこれは平山(役所)のドキュメンタリーでもあると。

時に、物語は全てを台無しにしてしまうことがある。一方で、物語は全てを救うことがある

プロットを作り込みすぎて、物語を入れすぎるとそれが暴走して、全体を壊してしまうことがある。彼はそれを「象」によって世界が荒らされると表現していました。どれだけスムーズにその象を手懐け、虚構の中で現実化するか。視聴者に平山になってもらうか。そんなことが語られていました。物語性の一番大切なところだと思います。やっぱり人生には、この世界には物語がなくちゃいけないと思います。

———————————————————————————————————————読んでくださりありがとうございました。
最後に、ヴェンダースの言葉で締めたいと思います。


「木漏れ日がこの宇宙全体でたった一度しか見られないということに気がついています。彼がそのたった一人の鑑賞者だったのかもしれません」



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