私が発達障害に気づくまで
私はずっと、死にたいと思っていました。
私は、物心ついた時からよく怒られていました。
保育園では、ご飯の時間内にご飯を食べ終わった記憶がありません。
年中さんの運動会では周りの子はみんなちゃんとできているのに組体操をまったくせず。
保育園の先生たちからよく、「本当にマイペースだね」と言われていました。もちろん褒め言葉なんかではありません。
後から父は、「あのまま小学校に上がったら、絶対いじめられると思った」と話していたほどです。
つまり、人に合わせることをしない、自分の興味のあることしかしない。集団行動ができない。という状況でした。母はそれを、私を父や兄が甘やかしたせいだと常々言っていました。
小学校に上がると、もちろん保育園よりさらに集団行動を求められるようになり、私の悪い所がどんどん浮き彫りになりました。
先生の話はぼーっとして聞いていないことがほとんどで、忘れ物も多く、先生や親に怒られることが増えました。
小学校1年生の時には、自殺したいと思うようになりました。
どうして自分は生きてるんだろう?
答えの出ない自問自答を繰り返しながら、行きたくない小学校に行かされる日々でした。
かと言って四六時中そんな思いを抱えていたわけではなく、楽しいこともあったと思います。
特に私は本を読むことが好きで、本を読んでいるときは実際の落ちこぼれの自分を忘れることができました。
ある時、宿題を学校に忘れてきてしまったことをきっかけに、父に怒られました。
その数日後、また同じことで母に怒られました。いつもは父が叱り役で母が励まし役だったので、優しい母が怒りをあらわにするのを呆気にとられて見ていたのを覚えています。
母は怒りながら、そして泣きながら、私のナップザックを地面に何度も叩きつけていました。
「なんで!?この前お父さんに怒られたばっかりじゃないの!?ねえ!!」
母も人間です。どう頑張ってもうまくいかない子育てにストレスが溜まっていたのでしょう。はたまた別の何かがうまくいってなかったのかもしれません。
ただ、幼い私には自分が悪いことをしたということだけがわかりました。
「おあかさんごめんなさい」
父から怒られた経験上、自分から謝らないと許してもらえないとわかっていました。私は泣きながら謝りました。
「おかあさんもごめんね」
母も泣きながら私に謝りました。
私は、自分なりに普通にしようとしているつもりでした。
こういうことを言うと、必ず父に「つもりじゃだめなんだ。結果を出せ」と言われてしまうのですが、とにかく当時はそう思っていました。
どうしたら忘れないのか?どうしたらほかの子たちと同じように、普通に学校生活を送れるのか?
色々考えて実行してはみたものの、どれも実を結びませんでした。
忘れないように紙に書いても、家に帰るとその紙の存在を忘れていたり、紙自体を無くすこともよくありました。
両親は共働きでした。
兄たちも家をあけている時、一人になることが多々ありました。
私は、包丁がどこにしまってあるか知っていました。
手首を切ればたくさん血が出ることも、しっていました。
でも、私はビビリでした。
包丁の刃を手首に当てた瞬間、死ぬことが怖くなりました。
何度死のうと思ったか、もう覚えていません。
しかし、包丁を手に取ったときも、小学校の最上階から下を見下ろしたときも、私の中のビビリが出てきて邪魔をするのです。
寝る前に、このまま朝眠るように死んでいたら、と考えたこともありましたが、もちろんその願いが成就することもありませんでした。
小学校4年生がピークだったと思います。
小学校では5ミリ方眼のノートを使っていました。算数の時間に、先生がこう言いました。
「筆算は詰めて書くと見にくくなるから、筆算と筆算の間に横も縦も1行空けると見やすいですよ」
その日の宿題に、私はその方法をさっそく実践しました。しかし、そうすると今日の分の宿題が今日のページに収まりきりませんでした。私は、収まらなかったのだからやらなくていいのだと思っていて、入りきらなかった分はやらずに次の日出しました。
結果、先生はとても怒りました。
クラスのみんなの前で、「こんなことするんですよ!ありえない!」というようなことを言われて怒られました。
私はその時初めて、出された宿題は入りきらなくても全部やらなきゃいけない事を知りました。
私は、プライドの高い人でした。
自分がダメな人間なのは百も承知で、そのダメな部分を人に知られるのは嫌でした。そのくせ目立ちたがり屋で、ちゃんと仕事をできもしないくせに何にでも立候補しました。
小学校の先生も、私には手を焼いていたと思います。
また、こだわりも強く、小学校後に行っていた児童クラブという場所でのランドセルの棚はどこを使っても良かったのですが、私はここが良いという場所が決まっていました。
ある時その棚に、先に他の子がランドセルを入れてしまっていたことがありました。私はものすごく怒りを感じて、その誰かのランドセルを出して、自分のを入れました。
最後まで誰だかわからなかったけど、その節は申し訳ありません。と、その子に謝りたいです。
4年生の時の心の拠り所は、やはり本でした。当時私は家にあったハリー・ポッターの小説をずっと読んでいました。夏休みには8時間くらいぶっ続けで読むこともざらにありました。そう、私の唯一の取り柄は、集中力でした。
本を読んでいると人に呼ばれても気づかない、ご飯を食べるのを忘れる、時間を忘れて読みふける。気づいたときには外が暗くなり始めていることが何度もありました。図書館に毎日通い、昼休みもずっと本を読んでいました。ここだけの話、授業中も読んでいたことがあります。
父も、母も、学校の先生も、私を「普通」にしようとしてくれていたのだと思います。
人とペースを合わせられない私を心配していたのでしょう。
父や母からはもちろん愛情をたくさんもらいました。愛されていると自信を持って言えます。
だからこそ、私が社会に出て苦労しないように、周りに合わせられるように、怒ることで曲がった私を真っ直ぐにしたかったのかもしれません。
きっとそれは、私がしっかりしていない原因は認識の甘さや根性にあるのだと思われていたからだと思います。
私もそう思っていましたし、自分が人より劣っていることも気付いていました。でも、どうしたらましになるのか、人と同じように学校生活が送れるのかわかりませんでした。
クラスメイトに好かれていないことは百も承知でした。
大体、毎年一人は面倒見の良い子が私と一緒にいてくれました。
その子たちには、本当に感謝しています。
しかし他の子たちは私をよく思っていませんでした。それは、言動の節々に表れていました。
露骨な子は、私が近寄ると嫌な顔をしたり、「近寄らないで」と言ってきたりしました。
その子たちを憎いとか、仕返ししたいとか思ったことはありませんでした。
私のような人間は受け入れられなくて当たり前だと思っていたからです。今そんなことされたら辛いだろうと思うのですが、当時はそれが普通だったので寂しいとは思いつつも「そんなものだろう」と思っていました。
つい先日の話です。
私は言語聴覚士になるために大学に通っています。
発達障害についての授業の中で、障害児の特徴を読んでふと思いました。
小さい頃の自分みたいだ、と。
特に、ASD(自閉症スペクトラム障害)、ADHD(注意欠陥多動性障害)の二つは当てはまる項目が多くありました。
最初は、症状が完全に一致したわけではなかったのと、自分が障害を持っているわけがないという先入観から、たまたまだと思っていました。
しかし、授業が進んでいくうちに、私のその可能性は強まっていくような気がしました。
ADHDにも種類があり、注意障害のみで多動傾向を示さない子がいるーーー
ASDはこだわりが強くーーー
ひときわ私の目を引いたのは、自己肯定感という単語でした。
私は高校生の時点で、自分は自己肯定感が低いということを自覚していました。
障害児には出来ないことを怒らないで、できるよう工夫してあげるのが大切。そうしないと本人の自己肯定感が損なわれてしまう
「これだ」と思ってしまいました。
それと同時に、今まで思い出さなかったーー思い出したくなかった過去を、凄い勢いで思い出していました。
あれも、あれも、あれも、あてはまる。
可能性が、確信に変わりました。
大学なので、当然授業は教授がしてくれていました。
精神科医の先生に、私は思い切って授業の後に聞いてみることにしました。
「私は幼少期このような子供だったのですが、発達障害だったのでしょうか?」
先生は、迷うことなく肯定しました。
「人から変わってるねって言われることは?」
「よくあります」
「当時一緒にいてくれる友達はいた?」
「毎年一人はだれかいてくれました」
「ASDは周りの人に恵まれることが多いから、そのタイプだったんだろうね。メタファーを理解できないことはある?」
「それはありませんでした」
「そこまではなかったか。今は苦労してない?」
「はい、今は普通の子たちと同じように生活できてます。ちょっとおっちょこちょいな人って感じです」
「それなら、自然治癒したんだね」
多分私は、発達障害といっても軽度の部類だったのだと思います。
メタファーというのは、含意のことです。
例えば、友達に「消しゴム二個持ってる?」と聞かれたら、私たちはこの人は消しゴムを貸して欲しいんだなとわかります。なので、「もってるよ、はい」と貸してあげることができます。
しかしASDの子は、その言葉では伝えられていない裏の意味が理解できないために、「消しゴム二個持ってる?」と聞かれたら「もってるよ」とだけ答えます。
このような子供には、やってほしいことは具体的に言わなければ伝わりません。
例えば母が、「鍋見といて」と言ったら、一般的には鍋が吹きこぼれそうになったら火を止めるか、弱くしてくれという意味です。しかしASDの子供はその真意が読み取れないために、鍋が吹きこぼれようと、ただ言いつけられた通りにじーっと見ているだけ、という状況が生まれます。
このようなシチュエーションで母がその子を叱るのはお門違いです。伝える段階で、「この鍋の中身が、ぐつぐついったら、火を止めてね」などというふうに、具体的に言わなければならないのです。
その後、他の発達障害を専門としている言語聴覚士の先生にも聞いてみました。
私が本が好きだったという話をすると、先生は注意障害があったんだろうね、と言いました。
注意障害とはつまり、普通の人のような注意の仕方ができないということです。
普通私たちが何かをするときは、注意をその一点に向けるようにします。そして、それ以外の雑音などのボリュームを自分で調節して少し下げます。それができないのがADHDです。多動傾向を示すADHDの子どもたちは、色々なものが視覚的にも聴覚的にも入ってきてしまい、注意を持続することができません。
逆に私は、完全にその一つの作業のみに集中が注がれてしまい、他のことに注意が向かないことが異常でした。
つまり、本を読んでいる時はご飯を食べるのを忘れたり、人に話しかけられても全く気づかないのは注意障害だったわけです。
そこで私はADHDとASDの両方の性質を持っていることに気づきました。
「ASDとADHDが混ざっているということもあるんでしょうか」
「もちろんありえるね。でもそういうタイプの方が、あなたのように普通に学校生活を送れたりする」
「本が好きだったので、八時間くらい集中が途切れずに読むこともざらにありました」
「そういう人が、偉くなっていくんだよ。だから、悪いことじゃない」
こうして、その道のスペシャリストに判断してもらい、私は発達障害だったのだと断定しました。
その時率直に思ったことが二つあります。
一つは、自分の幼少期の謎が解けてすっきりしたということ。
どうしてこんなに落ちこぼれなのか?その答えが13年ぶりに導き出せたのです。
そして、安心しました。なぜなら自分という人間が悪いわけではなかったのだと思えたからです。
二つ目は、大学に来れて良かったということです。
学歴なんて人生の中ではちっぽけなものですが、その学歴に私は少し固執していました。
もしも小学校に普通に通えず、障害児施設だったら、今頃言語聴覚士を目指して大学に入学していただろうか?と考えた時、きっとできないと諦めていただろうとおもいました。
だから、少し辛くても普通に小学校、中学校に通えたことを、父母に感謝しました。
特に母は看護師だったこともあり、私が小学校生活を少しでも楽にできるよう工夫してくれていました。
小学校が辛すぎて、障害児施設の方が過ごしやすい人ももちろんいるでしょうし、その方がもしかしたら私にとっても良かったのかもしれませんが、今の人生で私は満足しています。
発達障害は、本人のせいではありません。まして親の育て方のせいでもありません。
発達障害の方は、どうか、自分の存在を否定しないでほしい。家族の方は、できるだけ本人が生きやすい環境を作ってあげてほしい。
クラスメイトなら、本人を少し変わった個性として認めてほしい。
注文が多いかもしれません。
しかし私はこの願いが叶う社会を作るため努力していきたいと思います。
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