美術学習における最大の障壁:言語的理解不全

絶望のレトリック

現代美術は、職人的な技巧を極めることよりも、アートという概念の拡張を重要視する。つまり、新しい価値観や形式に基づいた作品の発明を目指すジャンルなのだ。そのため現代美術における教育も制作に直結する実技だけでなく、座学──つまり言語を介した学習が重要な役割を担っている。
だが、ここに大きな問題がある。学生および美術学習者の多くは、教師や批評家が言っていることをあまり理解できないのだ。

美術業界には独特な語彙、言い回し、思考形式が無数に存在しており、美術語とでも言うべき独自の言語体系が成立している。それは世界中で見られる現象で、特に難解な美術英語はインターナショナル・アート・イングリッシュと呼ばれることもある。
これらの曖昧で難解な言葉によって語られる授業や論文に出会った学生は、その意味を文脈からなんとなく推測することしかできない。

それなのに学生は、小論文やアーティスト・ステイトメントなどを通じて、自分が授業の内容、ひいては美術的な言語を理解していることを証明するように要求される──彼らは必然的に、ハッタリで誤魔化すしかない。
そこで学生は、教師や批評家が言っていることがよく理解できていない一方で、おそらく有意義で正しいことを言っているのだろうと盲信し、その発言をそのまま反復したり、特徴的な言い回しを真似たりして文章を書くことになる。
ピエール・ブルデューは著書『教師と学生のコミュニケーション』の中で、これを絶望のレトリックと呼んでいる。

絶望のレトリックとはつまり、上辺を取り繕うためだけに書かれたテキストの様式である。どっちつかずの意見、全く無関係に思えるテキストの引用、当たらずとも遠からずの曖昧な定義付け、造語を使ったはぐらかし。
これらはいずれも、自分のあやふやな知識と理解度を覆い隠し、文章から才能や実力を判断されないようにするための自己防衛手段である。

教師と学生の共犯関係

だが、このような言語的理解不全は、簡単に解決できるようにも思える──教師がもっとわかりやすく説明すれば良いだけではないのか?
効果的かつ合理的な美術教育を実現するためには、そこで使用されている言語と内容をより明確なものへと改善する必要がある。教師は、教室には様々な社会的出自と学歴を持った学生がいると認識した上で、彼らとの間にある知識と考え方のギャップを把握し、それを埋め合わせる努力をしなければならない。でなければ学生は、教師が授業で話した内容の大半を理解できないまま取りこぼしてしまう。
それと同時に、学生が教師の言語と思考の様式:コードを理解し、使いこなせるようになるための基礎的なカリキュラムも必要だ。

だが、大学がこういった言語の明確化・合理化を推進することはないだろう。なぜならそれが彼らの教育哲学と矛盾しているからだ。高度な専門教育の場としての権威を背負っている大学としては、生徒のレベルに寄り添った基礎教育は幼稚なものであり、大学には相応しくないと考えるのである。
(問題は、現代美術の基礎を分かりやすく教える場が、大学はおろか小中高のどこにも存在しないことなのだが)

更に美術教育の言語的理解不全は、教師と学生の共犯関係によって維持され続ける。曖昧なテキストを書く学生が模倣しているのは、批評家や教師のテキストであることを忘れてはならない。引用元である彼らもまた、自分が感覚的に理解・習得してきた知識を、分かりやすい言語表現へと変換する専門技術を習得していないのだ。
むしろ教師は、言語の明確化によって授業内容のクオリティが可視化され、良し悪しを評価される立場になることを嫌がる。そして学生もまた、言語の明確化によって等身大の実力が暴かれ、才能の有無が評価される状態になることを嫌がるのである。

結果として教師は特権的立場を利用して、優秀な学生ならば自分の言っていることを理解できるはずだ、理解できないのなら彼らの読解力に問題がある、という姿勢を取り、教え方を改善しない。学生も秀才を演じるために、教師の言っていることが理解できているフリを続ける──こうして、上手く伝えることも理解することもできないまま、教師と学生はお互いに健全なコミュニケーションが成立しているかのような演技を続ける。曖昧で難解な言語は、自分たちの実力を隠し、評価を永遠に先延ばしできる煙幕としてあまりに優秀である。

見えざる格差:ハビトゥス

それでも、前述のような美術の『コード』を感覚的に理解し、使いこなせる学生が度々登場する。周囲は彼らを天才と呼び、やはり美術のセンスは生まれ持って備わっているもので、学校で教えることはできないのだと称賛する。だがその認識は間違いであるどころか、美術教育の問題点と不平等性を覆い隠すことに繋がっている。

実際の天才たちの多くは、単純に幼いころからその分野に慣れ親しむことができる環境で育ったことで、無意識の学習を日常的に蓄積してきた者たちである。(嘘だと思うなら、頭に浮かんだ天才的アーティストの親族について調べてみると良い。)
知識階級や美術家の子供が若くして才能を開花させると、まるで優秀な遺伝子が受け継がれているように見えてしまうが、その才能は先天的なものではなく、親から提供された膨大な学習機会によって後天的に身についたものである、と考えることができる。

この様に、無自覚的・感覚的にいつの間にか身に付けた知識、価値観、立ち振る舞いの様式を、ブルデューはハビトゥス(性向)と呼ぶ。特に現代美術は、このハビトゥスという見えざるアドバンテージが極めて有利に働く業界だと言えるだろう。なぜなら現代美術は、欧米の知的上流階級の文化に基づいているからだ。その文化は多くの日本人:地方在住の一般家庭出身者たちにとって言語的・思想的・距離的に馴染みがないものなので、それを理解・習得するにはかなりの時間が必要となる。
一見平等な条件下で勉強しているように見える学生たちの間にも、入学する前からかなりの差がついているのである。

また事実として、美大は受験生たちが現代美術の才能を持っているかどうかを判断する方法を持っていない。
評価基準が存在しないだけでなく、そもそも誰も現代美術を体系的に教えていない、教えようとすらしていないため、現代美術を理解できている受験生が根本的に少ないのだ。
そのため美大入試における学生の才能の評価には、何百年も前から体系化されている、教えやすくて巧拙の判断もしやすい具象表現(デッサン)が未だに判断基準として用いられている──それが現代美術とはあまり関係が無い技能だとしても。

言語障壁を乗り超えるのは誰か

美大入試のためにデッサンを極めた学生でさえ、入学後に始まる難解な言語を用いた授業を理解できずに行き詰まってしまう可能性がある。
このようにして学校システムは、大半の学生の学習を言語障壁によって妨害すると同時に、最初から現代美術をなんとなく把握できている天才:有利な環境下で生まれ育った者たちばかりが評価される状況を生み出している。これがブルデューの言う格差の文化的再生産である。

学校が勉強の機会を平等に与える場であるのならば、アートは自由と平等を愛するというのならば、一握りの人達の間で独占的に共有・相続されてきた現代美術業界の慣習と様式をしっかりと言語化し、体系的学習によって習得可能なものへと整理して、様々な出自の人達に向けて公開しなければならない。だが、そういった活動を使命感を持って行うことができるのは、美術大学の教師でも美大生でもないだろう。

美術学習の平等性を本気で探求できる者、それは独学者だ。権威とは無縁な独学者こそが、明確な言語によって現代美術を覆い隠している神秘のベールを切り裂き、正々堂々と無知を晒しながら、ゲリラ的に学習を展開することができる。

そうなれば、持つ者と持たざる者のアドバンテージ/ディスアドバンテージを反転させることもできるのではないか。従来の美術学習法は、恵まれた環境の者だけに有利なものだ。それは裏を返せば、都会に住み、お金と時間を大量に消費することでしか成立しない非効率的な学習法なのだ。

独学者が、独学者による、独学者のための体系的な現代美術の学習法を確立できたなら。それは専門的な論文を読めなくても、実物の名作を観たことがなくても、あるいは制作した経験すらなくても、ある程度のレベルまで現代美術の『コード』を理解できる、効率的な学習法になるはずなのだ。
それを使いこなせたなら、我々は言語障壁だけでなく、生まれ育った環境の格差さえ乗り越えることができるかもしれない。

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