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【意訳】ロバート・モリス:多様な情熱を秘めたミニマリスト

Robert Morris, 87, Dies; Founding Minimalist Sculptor With Manifold Passions

By Ken Johnson
source: https://www.nytimes.com/2018/11/29/obituaries/robert-morris-dead.html

※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。もし間違いを発見された場合は、お手数ですが 山田はじめ のTwitterアカウントへご指摘を頂けると助かります。

ロバート・モリスはポスト第二次世界大戦の世代において、ミニマリズムの探求者として最も議論を巻き起こした彫刻家のひとりである。
1960年に開発された極限まで単純化するこのスタイルは、今日のアーティストにまで影響を与えている。モリスは2018年11月28日、 NYのキングストンで87年の生涯を終えた。 モリスの妻、ルシール・ミッシェル・モリスは彼の死因を肺炎であると発表している。

モリス氏はドナルド・ジャッド、カール・アンドレ、ダン・フレヴィンらと共にミニマリストの教義を生み出したアーティストのひとりだ。しかし、彼はその厳格に決められたジャンルの境界線の中で驚くほど多様な形式の探求をおこなった。その作品はスケッター・アート(散らかし系アート)、パフォーマンス、アースワークから、核兵器による大量虐殺を象徴的に表現したペインティングや彫刻まで多岐に渡っている。

モリス氏を批判する者は、彼のアイデアが他のアーティストに参照されることが少ないことから、その独創性と真価に疑問を呈している。一方で彼の支持者は、アートの可能性をひとつのスタイルの中に詰め込もうと活発に活動する姿を評価している。
だが近年では、ここ半世紀におけるアートの重要な問題提起がモリス氏の多様かつ変幻自在のキャリアによってなされてきた事は誰もが認める事実である。モリス氏は鑑賞者が困惑していても作品の解説を嫌がった。2017年のNYタイムズのインタビューで彼はこう語っている。“私はむしろその手の質問をショートさせて、アートは答えではなく問いを発せねばならない、というチェーホフの言葉でごまかしたいのです。”

Mr. Morris in 2017. One of a generation of artists who embraced the Minimalist credo, he later explored a staggering variety of stylistic approaches.CreditTodd Heisler/The New York Times

ロバート・モリス、本名ロバート・ユージーン・モリスは1931年2月9日、カンザスシティでローラ・パール・モリスとロバート・オーべド・モリスの間に生まれた。父は家畜ビジネスを営んでおり、同時にドライクリーニングのビジネスも簡単に運営することができた。彼が最初にアートを学んだのは彫刻ではなかった。カンザスシティ・アート・インスティテュートで学んだあと、1950年代前半にサンフランシスコのカリフォルニアスクール・オブ・ファインアーツにも入学した。エンジニアとして陸軍に従軍し、韓国や日本といった国で勤務した後、1953年から1955年にはオレゴン州のリード大学にも出席していた。彼はサンフランシスコに戻ると抽象表現主義的な絵画を制作して2つの個展で発表した。そして演劇、ダンス、映画にも関わるようになっていった。

モリス氏はシモーネ・フォルティと1956年に結婚する。彼女はダンサーで、後に有力な振付師/モダンダンスの教師となる。ふたりは1959年にNYへ移住し、前衛画家・ミュージシャン・ダンサー・パフォーマンスアーティスト達が織りなすダウンタウンのシーンの一角を担うようになる。そこでもモリス氏は様々なものに興味を示していく。(彼はフォルティと1962年に離婚し、プリシラ・ジョンソンと再婚した。)

モリス氏は彫刻を制作し始める。それは小さなネオダダ的作品で、自分語りや矛盾、洒落の要素を含んでおり、マルセル・デュシャンとジャスパー・ジョーンズの影響を受けた作品であった。
例えば “I-Box” は大文字のIの形をした小さなドアが付いており、それを開けるとニヤリと笑う全裸のモリス氏の写真だけが飾ってある、というものだ。モリス氏はこれらの作品を1963年にグリーンギャラリーで開催したNYでの初個展で展示している。

彼はコンスタンティン・ブランクーシの彫刻に関する論文を書いてマンハッタンのハンター・カレッジで美術史の修士を取得し、1964年から晩年までハンターで教師として働いた。ダンスへの興味も失うことはなく、ミニマリスト的なスタイルでダンスをおこなうジャドソン・ダンスシアターに夢中になった。フォルティ女史はその主要メンバーであり、モリス氏自身もジャドソンのいくつかの公演で振り付けや出演をおこなっている。
その作品の一つ、“Site”でモリス氏は自分の顔を描いたマスクを付け、 合板を労働者の様に持ち歩き、マネの“オリンピア”に似たポーズを取ったヌードの女性の姿を観衆の前に晒す、というパフォーマンスをおこなっている。

同様にモリス氏はジャドソンのパフォーマンス用のセットや小道具も制作した。そのひとつ“Column”は高さ6フィート(約183cm)の合板製のモノリスで、彼が最初に制作したミニマリスト的な彫刻であると考えられている。
それに続くように、彼は合板を用いてシンプルで幾何学的な、中型サイズの彫刻のシリーズを制作し始めた。それは淡いグレーで塗装され、純粋な彫刻作品として制作されていた。

1964年、グリーンギャラリーでその極度に単純かつ簡素な構造物が展示された。床に置かれた長い梁、吊るされた板、部屋の隅にすっぽりとはまった三角形などを見た多くの批評家は困惑し、退屈した。このとき彼らはモリス氏をアヴァンギャルド系の作家として位置付けている。

なぜポリウッド(合板)を使うのか? “ポリウッド(合板)は安いし、たくさん手に入るし、標準化されていてどこにでもあるからです。”とモリス氏は2017年の本誌のインタビューで語っている。

“産業の世界で一般的な素材である合板は、アート作品の素材としてもストレスなく使用できます。合板の加工に必要な道具も一般的で簡単に手に入りますし、それを扱うための技術も難しくありません。大工仕事の技術もまた、産業化以降の都会の中流家庭にとっては日常的に使うものでしたから。”

1966年、モリス氏はマンハッタンのレオ・カステリギャラリーに所属した。彼はNYのソナベンドギャラリーと同様に、キャリアを通してこのギャラリーで作品を展示し続けることになる。
彼のミニマリスト的な作品において重要なのは、抽象的な新しいスタイルを広めたことだけではない。鑑賞者と作品の間に新しい関係性を生み出したのも同様に重要だ。なぜならその彫刻には、構図として伝統的に組み込まれてきた作品内部の関係性が無い。ゆえに鑑賞者はオブジェクトと展示室の関係性と、光と形が生み出す知覚体験に意識を向けることになるのだ。
演劇的な儚さを持つ時間と環境に基づいた鑑賞体験によって、精巧に作られた物質的な作品に打ち勝つ。その後に多種多様なアートが進むことになるこの道を、最初期に踏み固めたのがモリス氏の作品なのだ。

1966年、美術誌のアートフォーラムでモリス氏は“Notes on Sculpture”(彫刻備忘録)というタイトルでエッセイの連載を始めた。その中で彼は自分や他のアーティストが制作している新しいタイプの彫刻を分析している。世間に影響を与えたこのテキストを書くことによって、彼は自分が制作した彫刻の重要性を証明することになる。

Robert Morris, “Gypsy Moth,” 2017.Credit2018 Robert Morris/Artists Rights Society (ARS), New York; via Castelli Gallery, New York

1960年初期から70年にかけて、モリス氏は目が回るほど多様な方法によってミニマリズムと彫刻の可能性を拡張していった。引き伸ばされた金網や半透明なプラスチックといった透ける素材を使った単純構造の作品、複数個の同じ形状のオブジェで構成された作品、鏡を使って錯視的な幻惑を生み出す作品、迷路状の作品などを制作した。

また、展示空間に素材を散らかしたり、無造作に配置することで、厳密な構成をすることなく空間を活性化させる手法の開発も始めた。更に彼は分厚い巨大なフェルトを壁に掛け、切ったり折り曲げたり垂らしたりする作品を制作した。またまた更に、巨大なストーンヘンジの様な屋外設置のアースワーク、“Observatory”(観測台)をオランダで制作している。

彼のやったことの中で最も悪名高いものといえば、1974年の展示のポスターに、上半身裸にナチのヘルメットとサングラス、チェーンを身に着けた、何かSMの性的な儀式を連想させる写真を使ったことだろう。

やることなすこと全てにおいてイノベーターとして最前線で活動したモリス氏の評価は、1970年代初期にピークをむかえる。1972年のNYタイムズの批評記事でピーター・シェルダールはこう書いた。

“ある時期のモリスはアート界やアーティストといった枠組みを超えた存在であり、決して失敗しない様にすら思えた。” しかしそこから十数年後、コンテンポラリーアートの方向性はモリス氏を始めとしたクールで知的な作品を制作するフォーマリストにとって好ましくない状況へと変化しはじめた。新表現主義のジュリアン・シュナーベルからネオポップ・プロテストアートのバーバラ・クルーガーまで、アートはより具象的になり、個人的・政治的な表現が増えていったのだ。そして一時は著しく高かったモリス氏の評価が、60年代当時のレベルにまで回復することは2度となかった。

“Untitled (Dirt),” by Robert Morris. His work ranged from scatter art, performance and earthworks to paintings and sculptures symbolizing nuclear holocaust.Credit2018 Robert Morris/Artists Rights Society (ARS), New York; Bill Jacobson, via Dia Art Foundation

彼は時代の潮流に乗って作風を変えたが、彼が1980年代初期に制作したものは核による世界に対する恐怖を描いた、暗くてバロック調の作品であった。
“Firestorm”と名付けられたそのシリーズは、彫刻的で重厚なフレームの中に燃え盛る世界の終末の様子がターナー風のパステルカラーで抽象的に描かれ、そこに頭蓋骨、爪を立てた手、ロープ、鎖、ペニスやその他の暴力的なシンボルが置かれる、という絵画である。

1990年代に入ると、モリス氏はフェルトの作品を引き続き制作していった。その非常に目を引くレリーフは、彼の初期作品のようにジャスパー・ジョーンズの影響を感じさせるものだった。また、テキストと音を使った自伝的なインスタレーション作品も制作している。2017年、モリス氏は初期作品に立ち戻った最新のフェルト作品をキャステリギャラリーで発表した。同ギャラリーでは現在 “Banners and Curses” というタイトルの新作展が、来年の1月25日まで開催中である。1994年にグッゲンハイム美術館で開催された回顧展は彼の全キャリアをカバーしたもので、モリス氏はアーティスト一人につき一つの作風だけを展示する、という従来のルールを破った。

彼は自身のキャリアを振り返り、“Continuous Project Altered Daily”(終わらない計画変更の日々)というタイトルのエッセイ集を1993年に発表している。“私は研究・調査として何かを証明しようとしたことはありません。そして、何かを否定するために断定的な発言をしたこともありません。”だが、彼がアートの持つ力と重要性に確信を持って活動していたことは間違いない事実だ。彼は前述のエッセイにてこう書いている。

“アートにおける不条理なゲーム性と深い感動、畏怖と皮肉、悲嘆と嘲り、怒りと思いやり。これらがこの暗黒の世紀の証言者として残っていくのだ。”

Ana Fota contributed reporting.

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