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【意訳】ドローイング:一線を画すために

クリップソース: Frederic Anderson: ‘To Draw Away From’ – Instantloveland

※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
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Frederic Anderson: ‘To Draw Away From’

January 2, 2020

Daniel Jensen, ‘Nozzle Flow’ (2018), soft pastel, charcoal and acrylic on canvas, 100 × 75 × 2cm

私はいつも、絵画に関する問題のほとんどに単純な解決策があると考えていた──ドローイングに立ち返ることである。
ドローイングに立ち返ると言っても、それは一種の信頼できる構想の原点に、快適さ、温かみ、再肯定を求めることではない。むしろその真逆である。

ドローイングとは、あらゆることが起きうる流動的な場であり、そこでは物事の本質が丸裸にされ、隠れる場所もないのである。
ポップソングは、アコースティックギターと声だけに切り詰めても成立する必要がある。それと同じく、紙に鉛筆で描いて機能しない構図は、おそらく強い構図ではない。

良いドローイングは、軽快で、変化に富み、素早い展開がある。集中すれば一回の作業で50枚のドローイングを描くことも、連続的な思考の流れを最初から最後まで辿ることもできる。これを絵画でやるのはほぼ不可能、あるいはほとんどのアーティストにとって経済的に無理のある方法である。
一枚の白紙は、広大な白いキャンバスに比べれば怖くない。親しみやすく、扱いやすいサイズで、安上がりだからだ。気軽に取り組みやすいのである。
それが失敗する自由の開放を促してくれる。次々と沢山失敗していくことで、新しさと驚きを手にする可能性は高まるだろう。
なにか興味深いものが現れ始めたら、それがすぐに次のドローイングへ、また次へ、と前進するきっかけになる。ドローイングは壁や床へと簡単に動かせ、遠くからまとめて眺めたりできるので、関係性や配置を探究し、さらなるドローイングの制作と進化を促進できる。数日掛かった作業でも、アイデアの発展過程を開始から完成まで辿ることができる。

だが、一般的にはドローイングで行うオープンエンドな徹底的調査を、絵画に直接適用したら何が起きるだろう?行き詰まった際の打開策というより、絵画制作全体の戦略的な核になったら、どうなるだろうか?
ストルアン・ティーグ、ダニエル・ヤンセン、デヴィッド・オストロフスキーたちは、ドローイング的戦略を絵画のメディウムへうまく適用できたときに生まれるエネルギー、力強さ、発見にとても自覚的だ。

David Ostrowski, ‘F (From Bad to Worse)’ (2012), acrylic, lacquer and paper on canvas and wood, 221 x 171cm

以前のデヴィッド・オストロフスキーはドローイングを扱っていたが、今ではドローイングから学んだ戦略を大きなキャンバスに直接持ち込んでいる。大画面の上で発生する問題に、その場で対応しているのだ。彼は“一発目が重要だ”と考えている。修正が効かない、少なくとも修正の跡が思いきり見えてしまう画材と技法を使っているので、そのオーバーオールな構図では最初の一手が重要な要素となる。
速度と圧力の微妙な変化が記録されたスプレー塗料の線には、慣習的な方法で塗られた線よりも、ドローイングの線との共通点が多い。その線が持つ“ムード”を筆で再現するのは困難だ。オストロフスキーが探究する実験的構図には、直接的で新鮮で即時的なドローイングらしさがある。
彼が大量に制作した絵画は、事前に何も決定せずにオープンエンドなアイデアを前進・開拓する、という点が通底している。何か予想外のことを探しているのだ──彼が仮想的にスタジオに架けていると語るネオンサイン、“Surprise” や “Think Harder” を点灯させてくれる何かを。

Struan Teague, ‘Untitled’ (2019), oil stick, oil pastel, pencil and distemper on linen and wood, 200 x 150cm

ストルアン・ティーグは事前の決定を避け、新しい絵画にまっさらな状態で取り組むことで、キャンバス上の痕跡に対する有機的な反応を開拓・展開させる。
彼のスタジオにあるキャンバスの多くは、使用される前に床に敷かれたり、折り畳んで隅に置かれるなどして枯れた風合いが付けられている。その周辺で絵画を描いているので、偶然の痕跡が徐々に積み重なっていくのだ。これらの“ファウンド”・マークが構図の基点となり、様々な画材を使った曖昧な描画とキャンバスの対話が始まるきっかけになる。

ティーグの作品には、アグネス・マーティンと同じ絶対音感がある。構図における各要素は、最も儚いものでさえ重要な役割を持っている。
偶発、意図、速さ、遅さ、絵具のドリップ、描いた線、引っかき、ぼかし。これら様々な要素の間に、機能上の張力が生み出されているのだ。
絵画が物質的な構造物だとしたら、それぞれの要素に荷重が掛かっている状態だ。どれかを右や左にずらしたり、取り除いたりすれば、その構図全体が崩壊する危険がある。

Daniel Jensen, ‘Coral Reef (Green)’ (2019), soft pastel, acrylic, graphite and gesso on canvas, 200 x 140cm

ダニエル・ヤンセンの絵画では、活力、遊び心、自由奔放さが爆発して画面内を埋め尽くしている。その制作はソフトパステルやその他のドローイング用画材で未処理のキャンバスの上に描くことから始まるが、ここにも修正の余地はない。鮮やかな色面へのドローイングでは、そのエネルギーと躍動感によって構図が活き活きとしている。線、走り書き、鉛筆の跡、指紋などが交錯し、色彩が衝突しているのだ。
その絵画は、自分自身が完成するまでの物語を自分で語っているかのようだ。蜘蛛の糸の様に細い鉛筆の線で描かれた構成を、乱雑に塗られた色彩が破壊・圧倒している。
これらの絵画は、不確定性を解き放つ場としてのドローイング、という概念の上に構築されている。鉛筆の線や指紋を未処理のキャンバスの上に配置するなど、使用している画材が単純かつ直接的という点では還元的だが、ミニマルな作品に分類されるのを防ぐため、ほとばしる線と色彩も構図の中に含まれている。

ドローイング的探究は、作品内で自己完結しがちである。ある特定の絵画における戦略や色彩の組み合わせは別の絵画へと受け継がれるが、ひとつの絵画における問題解決策が、次の作品でも問題解決の鍵になるとは限らない。
興味深いことに、無関係な要素が絵画から全て滑り落ちたとき、線は柔軟になり、呼吸をはじめ、自分自身について語り出す。キャンバスに線が描かれる速度、その軌跡における筆圧の微妙な変化、キャンバスの四隅を考慮した配置と、他の線との関係性。それらすべてが鑑賞者に語りかけてくる。線は一種の言語なのだ。

オストロフスキーがスプレーした線の描画は鈍いが、比喩的な意味でも鈍い。明らかに元気がなく内省的で、殺風景で、調和しておらず、物理的にぼやけており、まるで鈍いナイフで扱いにくい素材を切り裂いたかの様な大袈裟な線に感じられる。
ティーグの線はより鋭く、不安定でハイピッチだが、それでも感情が込められている。生き物によって描かれたような質感を持つその線は、判別不可能なな新しい形へと再構成されている。
線の太さの微妙な差異が、慎重に表現された余白へと眼を誘うが、その線の折れ目やヨレといった細部に引っ掛かって視線が止まることもある。
ヤンセンの線はエナジーで震えており、汚れと埃だらけの未処理のキャンバスの中に色彩を閉じ込めようと奮闘している。

オストロフスキーの大型絵画は、前述の作品が持つ生々しさ、粉っぽく手探りな質感などの実験的なドローイングらしさが緩和されている。
大型作品に偶然性を持ち込むことで、画面には真の緊迫感が与えられている。それによって鑑賞者は、アーティストのスタジオで日々起こる現実に接することができる。どちらに向かうべきかという一瞬の判断、どうやって、どこに何を描くべきか、という強烈で耐え難い緊張感である。

David Ostrowski, ‘F (Dann lieber nein)’ (2013), acrylic, lacquer and cotton on canvas, 241 x 191cm

オストロフスキーの絵画、“‘F (Dann lieber nein)” では、未処理のキャンバス地に野ざらし感と脆弱さが見て取れる。人が行き交う公共空間の壁のような野ざらし感と、一枚の紙が持つ脆弱で手仕事の痕跡を吸収するような性質である。
その色調はベージュ、かすかで曖昧なグレー、そして僅かに飛び散った小さな白い絵具で構成され、まるであまり愛されていない公共空間のような、施設的冷たさを持っている。
画面の各要素をみると、何かを書き、上書きし、そして消すことに部分的に成功したようだ。貼り付けられたキャンバスのパッチは粗く切られ、線の流れを妨害するように雑に配置されている。

その構図は不均一でぐらついており、画面の右側に崩れ落ちそうだ。まるで大きな絵画から一部を切り取って貼り付けたかのようである。飛び散った絵具や積もったスタジオの埃などの偶発的要素も、この憂鬱で弱い印象を生み出すことに貢献している。
スプレーされた線のぼやけは、その不明瞭な配置と共鳴している。文字はまるで手の届かないところにあるかのようで、意味の断片が詩的な抽象の中へと再編成されている。
木枠の跡も画面の表面に押し出され、描線、絵具の飛沫、そしてコラージュされたキャンバス片とうまく組み合わさっている。そのため、外見を構成する要素が実際には表面のどこにあるのか、視覚的な位置感覚を混乱させている。

Struan Teague, ‘Untitled (Maculata / Ercolano)’ (2019),  distemper and oil pastel on canvas, 200 x 150cm

ティーグの絵画 “Untitled (Maculata/Ercolano)” では、絡み合った脆弱な線が、鮮やかなオレンジの地の上で浮遊している。その柔らかく筆感のあるオレンジの水彩は、高密度の異世界的空気感(金星っぽい?)を生み出しており、まるで色の付いた分厚い雲のようだ。それが描線を細くも太くも感じさせている。
その線自体には非人間的な性質がある。まるで蜂が鮮やかな花の輪郭に触れているかのような、あるいは岩に触れた雨のようだ。

その生き物によって描かれたような印象の断片的な線が、ねじれ、折り曲がり、抽象的なかたちへと再配置されている。それは渡り鳥の軌跡や、霧箱(クラウドチャンバー)内の粒子の飛跡のように、自然界の力の流れを記録したものに見える。

画面上には、ためらいがちに何かを探しているかのような儚いぼやけた線と、より強く、より明確な線が並置されている。S、A、Xといった文字になりそうになっても完成はせず、クモの糸のようなもつれのなかに再び沈んでゆく。
その色調はオストロフスキー作品より鮮やかだが、同様に切り詰められており、オレンジと白だけになっている。下地の緩く表現的な筆捌きは、アグネス・マーティンの鉛筆の線に閉じ込められた淡い色の帯の様に、巧みに調和されている。
オレンジが濃くなっているエリアは、中心を外して配置された線とともに、ダイナミックなリズムと躍動感を生み出している。全体の構図は崖っぷちのバランスで構成されており、ひとつの線を消せば全てが崩れてしまいそうだ。

Daniel Jensen, ‘Theme Park’ (2019), soft pastel, oil stick and graphite on canvas, 200 x 140cm

オストロフスキーやティーグとは違い、ヤンセンは “Theme Park” に全力で取り組んでいる。画面内を埋め尽くし、より多くの色彩を混ぜ合わせているのだ。ヤンセンは個々の線に感情を込める方法を探究するよりも、密集した線が、窮屈で感情的な色面へと圧縮される際に何が起きるのかについて考えている。

“Theme Park ” では、6つの色面が未処理のキャンバス地を交互に横断するように配置されている。色面の間には緩い緊張関係があり、その面を構成するハッチングの線には猛烈な“描いた感”がある。
このヤンセンの絵画がティーグやオストロフスキーの作品と共有しているのは、なにかが分解され、新しい判別不可能なかたちへと再構成された感触である。それは、‘On Abstract Art’の中でブリオニー・フェールがマレーヴィチ作品について語った、コラージュをしないコラージュのようなものだ。そこに素材の性質(未処理のキャンバスにソフトパステルとオイルスティック)が隠れる場所はなく、痕跡が積み重なって多層的な深みと全体の雰囲気を生み出している。
また興味深いことに、この絵画はサイズの印象が変わる。スマホの画面でこの作品を見ると、実際には2mのキャンバスなのに、フェルトの切れ端に描かれたポストカードサイズのドローイングに感じるだろう。

我々が今、現代絵画の“エンドゲーム”を皆でやっているのだとしたら、基礎に立ち返ることは極めて自然な衝動だ。絵画の初歩としてのドローイング、そして抽象表現のルーツとしてのコラージュである。
これら3人のアーティストの作品を見ると、すでに時計の針は12時を過ぎているのではないか、と思える。我々はエンドゲームというよりも、絵画の新しい領域にいるのではないか。
より直接的な実践によって再活性化された、素材の性質を活かす絵画制作プロセス、そして描線というシンプルな視覚言語の領域に。


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