2023年6月に読んでよかった本 ~VTuberと共同幻想~

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

大衆主義、消費主義を批判するカウンターカルチャー、文化的左派勢力は、実は消費主義を加速させているだけだったということを明快に記述している。読みやすくておもしろかった。
趣味がいい、センスがある、クールだという認識は局地財であり、局地財が関わる集合行為は例外なく囚人のジレンマに陥る。かっこいいものはみんな欲しがる→みんなが手に入れた時点でそれはかっこよくなくなる→みんなかっこよくなくなる。といった具合である。本書ではこれを底辺への競争とよんでいる。人と違った自分でありたいという、なかば無批判的に採用される生き方にこのような構造があることは自覚しておくべきだろう。
一番興味引いた指摘は「カウンターカルチャーの誤謬とは、状況をよくする改善策があるにも関わらず、それがラディカルで抜本的なものではないという理由からそれを退けてしまうこと」。言われてみると確かにと思うのだが陥りやすい問題だと思った。仕事とか日常生活まで話を小さくしてもよくあることである。部分的によくないからといって、システム全体を放棄してはいけないのだ。
結局のところ、状況を抜本的かつ鮮やかに解決する策などそうそうあるものではなく、提案、議論、法制(ルール)化という泥臭い手順を地道に続けることで少しずつ状況を改善させていくしかない、ということをあらためて確認させられた。

共同幻想論

言わずと知れた名著。昔読んだときはさっぱりだったけど、今回はだいぶ理解できたとおもう。というか哲学とかの専門用語があまり出てこないので、単体で読んでも理解できる内容だった。序に書かれているとおり、学問体系の外側の立場から書かれているとおもう。
共同幻想-対幻想-個人幻想の3つの幻想(上位構造)を立てて、それらをつかって国家の成り立ちを説明するこころみの本である。調べればいくらでも解説があるのでここでは省く。このあとで使っている「幻想」という単語は本書で使われる意味の幻想であり、平たく「概念」ととらえてよい。本書にならい、単語を幻想としてつかう場合は<>で囲む。
初版は1984年で、議論は国家の成り立ちとか政治とか大きなものについてである。時代的なものだろうけど、我々のような令和人の問題設定はもっと小さなものになるだろう。自己幻想についてはほとんど記述がないから、これは読者の課題ということだろうか。

自分の今の関心はVTuber周りなので、問題設定はVTuberの配信まわりの生態系を読み解き、どうすれば互いに利がある関係を維持できるかということになる。ここでいう利は金銭的な話ではなく、楽しいとか推しててよかったとかそういうことです。ひとつの答えは主体の自己幻想を強化すること、わかりやすく言うと自立することだとおもう。なぜか。自己幻想が弱くなるとは<自己>が<対幻想>、<共同幻想>に侵食されることである。本書のテーゼ「共同幻想と自己幻想は逆立する」を採用するならば、自己幻想の弱化は主体が抑圧されることを意味し、それは主体の生に負の影響を与えるから、というわけである。とはいえ、常に逆立するわけではない(人は誰かに承認されたがっている)ので、程度の問題だとおもう。

<配信>は共同幻想である。<VTuber>は共同幻想であり対幻想でもあるだろう。2つの幻想性は時間性、空間性でグラデーションになっているに違いない。あるときある場所では共同幻想優位だが、別のとき別の場所では対幻想優位になるといったふうである。活動の空気感がこのグラデーションをつくり、グラデーションが活動の空気感を形づくっているだろう。二つは反復する。<リスナー>も同様に共同幻想であり対幻想でもある。再度書くが、幻想という単語は決して虚構という意味ではない。

<配信>、<VTuber>から自立するということは、それらを見ない、離れることではなく、それらと関係することで<自己幻想>を強化することである。主体が自立するということは、主体を対象から特異な位相に位置づけるということであり、つまり、<配信>、<VTuber>から<自己>を相対化することになる。そのためには<配信>、<VTuber>を自己目的化しないコミュニティとしなければいけない。VTuberとリスナーの関係を閉じた相互承認の場にしないということである。通俗的な言い方では、共依存関係にしないといったところだろうか。

長くなったのでまた別の機会に……


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