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ヒヤマケンタロウから学ぶ『共感』と『理解』

最近、めっきり更新が減っているため、今後は週末に鑑賞したエンタメを言語化していこうと思う。
私はドラマや映画、舞台作品を観たとき、作品のレビューというより、作品を観たことによって得たことを書き残している。
よって、ここでも特に作品のネタバレはする予定はない。

私の拙い感想を読み、万が一作品を観てみたいと思ってもらえたなら、ぜひご自身で観ていただいて🙇‍♀️くらいのスタンスである。

さて、早速本題に入ることとする。
今回観た作品は、Netflixシリーズ

『ヒヤマケンタロウの妊娠』

【原作】坂井恵理『ヒヤマケンタロウの妊娠』   (講談社「BE LOVE KC」所載)
【監督】箱田優子 菊地健雄
【脚本】山田能龍 岨手由貴子 天野千尋
【出演】斎藤工 上野樹里
Netflix『ヒヤマケンタロウの妊娠』クレジットより引用

30分×8話とスッキリした分量で、1本の映画を観るような感覚だった。

SNSでも様々な観点から考察が行われているが、私がこの作品から得た学びは、
『共感』と『理解』の違いである。

まず、この作品に限ったことではないが、私は、
自分以外の誰か(または社会)に完全に自分のことを分かってもらうのは不可能
と考えている。
家族でさえ分かり合えないことがあるのだから、
赤の他人なら尚更である。

また、これは小中学校の道徳教育にも原因があるかもしれないが、
『相手を思いやる心を持ちましょう』
というフレーズが妙に引っかかる。
なぜなら、共感"してあげる"
というニュアンスが滲み出ているからだ。

今回の作品のテーマは男性妊婦。
男性が妊娠する可能性がある世界線で、世の中にそのような人が50年前から存在すると言われていたが、実際に見たことはない、という設定だった。

主人公やその周りにいる人たちの「男性妊婦」に対する気持ちの変化が繊細に描かれているのだが、作品を通して一貫していることは

当事者にしか分からないことがある

ということ。

男性妊婦の気持ちは、男性妊婦にしか分からない。
男性妊婦のパートナーの気持ちもまた、その本人にしか分からない。
それぞれに思うことがあり、相手に求めることがある。
しかし、なかなか上手く伝え合うことができずに衝突を繰り返す。

考えてみたら当たり前なのだが、
この現象を観ていると、とても他人事とは思えず、そのまま自分に跳ね返っている気がして心がざわついた。

特別な状況に限らず、人と接する上で、
自分にとっての当たり前は相手にとっての当たり前とは限らない。
逆も然りである。

そんな時、相手に自分のことを分からせようとしたり、逆に相手のことを無理矢理分かろうとしたりすることは、
悪い意味での『共感』である。

それに対して、相手に自分の気持ちを伝え、逆に相手にも気持ちを偽りなく伝えてもらい、それを咀嚼していくことが『理解』である。

ここでの『理解』は、相手に自分の主張を押し付けはしない。
伝えることを伝えたら、それをどう咀嚼するかは相手に委ねている。


ダイバーシティが叫ばれる今日。
今まで他人に伝えられなかったことでも、誇りを持って発信していける時代にシフトしてきた。
しかし、全ての事象に『共感』を求めることは不可能に等しい。
人にはそれぞれ、自分の中での「当たり前」が存在し、それは簡単に揺るぐものではないからだ。

さあ、そんな時代の中、私たちはどう生きていくべきだろうか。
私は、各々が自分の主張を発信でき、相手の主張を『理解』することが大切であると考える。

そして、相手のために自分を犠牲にすることがないよう、自分にとっての「当たり前」を尊重する姿勢も必要だと考える。

ヒヤマケンタロウは、男性妊婦という想像すらしていない状況に自らが追い込まれたことで、それに気づくことができた。

私たち視聴者は、ヒヤマの背中から学ぶべきことがたくさんあるのではないか。


今はこの程度の感想だが、半年後、1年後に同作品を観たら、きっと感じることは異なるだろう。

その時感じていることが、今と比べて成熟しているためにも、今後『共感』と『理解』を意識して生きていこうと思うのだった。

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