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「ゲーム的」ってなんだろな、と考える

ここ最近、今更ながら『METAL GEAR SOLID V: The Phantom Pain』をやっていた。

メタルギアソリッド シリーズはほぼ通っておらず、伊藤計劃のノベライズ版を読んでやっと話の流れがわかったくらいなので物語はそこまで堪能できていないと思う。だがその分、小島秀夫監督の「ゲームだからこそできること」を追求した試みや遊びを堪能できた気もする。

小島作品に限らず、今までにも、そんな「ゲーム的演出」を感じる瞬間があった。だが、なにをもって「ゲーム的」とするかはまだまだ感覚的なものだ。そこで、サンプルというにはあまりに貧弱な自分のゲーム遍歴を顧みて、ちょっとでもその「ゲーム的」という部分をちょっとでも言語化してみたい。

まずは「○○的」と使うケースについて考える。自分は映画好きなので「映画的演出・表現」なんていう言葉を安易に使ってしまいがちだ。他にも「音楽的」や「文学的」なんて言い方もする。
多くの場合、「○○的」の○○には芸術のジャンルを当てはめがちな気がする。要は「芸術的」をさらに細分化して「映画的」「文学的」「音楽的」といった言い回しをするようになったのかも。
「ゲーム的」という言い回しはまだ一般的ではないが、自分としては「○○的」メソッドに当てはめても違和感はない。ということはつまり、筆者にとってゲームは既に芸術の領域内にいると思っているということだ。

ではもう少し具体的に、どういう場合に「○○的」と言うかを考える。
ここでもまた筆者の専門領域であり、ゲームと隣接した芸術メディアと言える映画を例に挙げる。
まずは自分がどんな時に「映画的」という言葉を使ってしまうかを考えてみよう。「映画的」はそのまま「映画ならではの」と置き換えることもできる。そして筆者が「映画ならではの」表現と感じるのは「画面に映っている視覚情報だけでなにかを伝えている場合」だ。自分にとっての映画ならではの特性はそこにある。

ただし、これは「映画的」という言葉を最も広い意味で使った場合においてである。この「映画ならではの特性」をさらに狭めて考えることで「映画的」が指す領域の精度を高めることもできる。
例えば、映画には必ずフレームが存在する。映画館には常にスクリーンがあり、そのフレームの中に映し出されるものを観客が眺める、これが映画だ。この構造自体は映画館だろうと、テレビだろうと変わらない。そんな構造を持つ映画は客観視のメディアといえる。観客は常に窓を一枚挟んだ状態で、安全地帯から窓の向こうの人々の活躍や危機を見守る。観客はフレームの中には干渉できず、ただ見守ることしか叶わない客体だ。

優れた映画作家たちはこの構造を巧みに利用する。
かのアルフレッド・ヒッチコックはこの窓の向こうから見ているような構造から映画を「覗き見をする」メディアとして捉え、窓の向こうから世界の闇を覗き見たような、そして危機的状況に晒される登場人物を成す術なく見守ることしかできない状況をサスペンスと呼んだ。
他にも一方的に見る立場だと思っていた観客をスクリーンの内側から見返すような演出は映画黎明期の『大列車強盗』の頃から使われている。

こういった「映画ならではの構造」を逆手にとった瞬間に「映画的」と感じる。

ここで映画うんちくはやめてゲームに話を戻します
それでは我々が「ゲーム的」と感じるようなゲームの構造を逆手にとった瞬間はなんだろうか。

ひとまず、昨日までやってた『METAL GEAR SOLID V』(以下MGSV)をサンプルに考えてみる。
MGSVには「Forward Operating Base = FOB」と呼ばれるオンライン機能が搭載されている。この機能はそれぞれのゲームを進める拠点となる海上プラント「マザーベース」 にオンライン上で潜入し、資材や人材を奪取・防衛するというモードである。
これだけだと一般的なオンラインゲームだが、肝心なのはメイン・ミッションを一通り攻略したあとに現れる「核兵器の開発・廃棄」というコマンドにある。おそらくこれがMGSVにおける、最もゲーム的な要素と言っていいだろう。

核を保有することにより、ほとんどのプレイヤーが自分の本拠地に侵入できなくなる。抑止力としての核だ。だが一方で高レベルのプレイヤーはマザーベースに侵入してその核を奪うこともできる。そして、そのプレイヤーはその核を保有するか、廃棄するかを選べる
つまり、ゲームのシステム上は世界中の核を廃絶することも可能なのだ。

ここまでくるともはや社会実験だ。もちろんMGSVを購入し、その中でもFOBミッションまでやるというハードルを超えてきた人たちだけが対象だが、そうはいっても世界的に人気なタイトル、プレイヤーの数は計り知れない。それだけの人たちが協力し、核を廃絶することができるのか?

筆者はこのシステムをとてもゲーム的に感じた。なぜなら、このシステムによってプレイヤーは核廃絶の困難さを身をもって「体験」できるからだ。しかし一方でそれは純粋な「体験」ではない。あくまでゲームという仮想空間で行われる遊戯としての「擬似体験」だ。
この「体験は」本物ではないが、だからこそ日頃絶対に体験し得ないことも体験し得る。核を保有するか、廃棄かなんて国家元首にでもならなければ体験できないが、ゲームなら「擬似」だからこそ「体験」できる。

ゲームもまた映画と同じくフレームに縛られた客観のメディアだ。
しかし映画と決定的に違うのは、ゲームの場合はフレームの内側の出来事に干渉可能な点だ。ゲームは映画のような客観性を持ちながら、主体としてフレームの内側を動かすことができる。

客体でありながら主体。「偽物」だが「体験」できる。

この構造を用いた時に「ゲーム的」と感じるのかもしれない。


ついでにMGSVが発売から5年あまり。数度、核廃絶が達成されたとして、その時にだけ起こるイベントが発生している。だが、どれもプレイヤーによる不正の結果だという。核廃絶の道のりはまだまだ険しそう。


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