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「人材」という言葉に猛烈に違和感を持ち、そこから急速にどうでも良くなってしまった件

昨今流行りの、本の中身をネタバレしたようなタイトルをつけてしまった久々の投稿記事。書きたい!という気持ちは投稿する上で1番のモチベーションだなと気づく。

違和感は自分への投影

さて、とある講座をオンラインで数週間に渡り受けていた。とても個人的なことなので詳しいことは書けないのだが、毎回自分を振り返り、掘り下げて、シェアしてというそんな時間だった。そして最終日は時間をかけて自分に向き合って、今出てきたことを表にまとめて皆の前で発表するという時間だった。

アイウエオ順で私は4番目。私より幾分か前の人の発表で、「人材」という言葉が多用されていた。

「人材」を譲る
「人材」に出会う
「人材」を育てる

人生において人は材料なんだなって思った瞬間、なんだか急速に興味が薄れた。人の役に立ちたいと言いながら、なんだよ、人をモノ扱いしてるのかよ。そんな気分だった。じゃあ人の役に立つ自分っていうのも、結局は自分をモノ扱いしてるってことか。

これはその人に向けられた気持ちではあったが、いや、もしかしたら自分の中にある違和感をこういう形で映し出してもらったのかもしれない。そんなふうにモノ扱いしているのは多分、私自身のことだ。だからこんなにも私は反応しているのだ。

価値観は4つに分けられる

話が少し飛ぶのだが、先日友人から人の価値観について興味深い考察をいただいた。

・損得
・勝ち負け
・善悪
・好き嫌い

人は大きく分けてこの4つの価値観で生きているというのだ。もちろん、どれが良いとか悪いとかの話ではない。時と場合によってはその4つは常に入れ替わるし、2つ3つと重なることもある。
だからこれは自分とは違った価値観に出会ったときに、この4つのうち、自分はどれで判断しているのだろう?そして相手は?と考えたら、その人のことを理解する助けになる、そんな話だった。

さて、最初の話に戻った時、私は4つのうちのどの価値観に基づいて違和感を感じ、相手はどの価値観で話をしていたのだろう?おそらく私の中で大きく割合を占めていたのは「好き嫌い」であろう。それも自分の中にある同族嫌悪的なものに違いない。

では相手は何を基準に話していたのか、と思いを巡らした時考えられるのは「損得」または「勝ち負け」ではないかと思う。

急速にどうでも良くなった私は何を思ったか?

そして最終的に何を感じたかというと、自分のために生きようと思ったのだ。いや、これまでだって自分のためにしか生きてこなかったわけだけど、「人の役に立とう」なんて露ほども思わないことにした。そう決めた。心のない言動は偽善だし、志のない行為は依存にもなりかねない。
私は人は人として接したいし、自分も人として扱われたい。損得で判断されたら悲しいじゃないか。だから「わたしはわたしを生きるのだ」これに尽きる。

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