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春夏秋冬会えない人

夏にしか会えなさそうで生きてたら春夏秋冬会える人 という絵を描いた 単純にイメージだけで浮かんだこの言葉について……逆に限定された期間、時間、空間、顔でしか会えない人がいるんだな、というのにふと納得してしまった 私にもいます、そういう人たち


昔の友達との思い出を話そう、と言ったらその人は私にとって少しだけ特別だ 友達だとか好きな人というのは思い返してもそう多くはない ずっと同じ人の話題だったりもする 今は夏なのだから

自分の排他的な好意の持ち方について最近考えていたのだけれど
感情というのは好意であれ悪意であれ、幾らかセーブするというか…キャパオーバーしたら自分が生きづらくなるだろうから、ほどほどに全体を嫌いになるとか、ものすごい嫌いがあってそれ以外は有象無象とか、そんな感じで各々のバランス調整が無意識に働いているのではないかと思う
無限に憎むことも、無限に好きになることもできない 私たちにそこまで広く深い目はないのだから 逆に言えば、無限に憎しみを受け取ることも、無限に好意を力にし続けることもできる人はいやしないし、全く関係のない憎しみと好意によって互いに相殺できることもない
そんな前置きを踏まえて……私はどうやら、好意をとっておくタイプらしい

生きることはできても、このバランスを生きやすいように保つことは人によって難しい 自分の抱えきれない好意や悪意に死にたくなる人なんかもいるだろうし 私の場合は、何かのために…誰かのために、誰にでもあげたくはない好意をあげられる対象がないから、世界に未練がないのかもしれない これって存在しない何かに寄りかかりすぎ?と思ったり 風に吹かれるような軽さであったり


話を戻すと、そう、子供の頃に友達の家に遊びに行ったことがある その娘は「地球環境を考慮してクーラーは28℃設定に固定する」と私に明言した上でエアコンの電源を入れた
それまでもエコやら冷やしすぎやらを程々に考慮して28℃設定にしていた私だったが、頑なさが妙に気に入ってしまいウン年経った今でもクーラーは28℃ その娘も当時のエコの風潮からそうしたのかもしれないけれど(環境より健康を考慮すると、室内温度を28℃に保つのが大切であって、イコールクーラーの温度を28℃設定にする、ということではないらしい)、私にとっては「友達がクーラーを28℃にしていたから私も28℃にしている」 今その娘がどうしているとかもはや関係ない クーラーをつけることで、毎年夏に思い出す人だから特別なのだ


暑くなってクーラーをつけるように、季節で思い出す人がいる 最後に会った季節は色々ほじくらなきゃ出てこなくても、言葉は重く残る人もいる それは言葉によって思い出す人 私が…そこに閉じ込めてしまった人とも言える
生きてなかったらしょうがない、生きているのだからなんとか会うことはできる でも会うことを別に望んでいない

私はどうやら、人ではなく、思い出だから愛することができるらしい

そうすると、今会ってる人、今いる人も、私はどこか思い出にしているんだ、と感じることがある 甥が母(私の妹)の胸に埋まりながら笑っている 取りこぼしてほしくなくて「機嫌が良さそうに笑っているよ」と教えてやる 叔母や妹と旅の番組を見ていて、なんだかこの人たちと旅をしているようだと思える 胸からすうと心地好い冷気が通る 幸せとは風を送ることのようです 幸せとは幸せに気づいた後、遠く離れて全く他人事になってしまうことのようです


「風が吹く あなたは今 レゴブロックのつややかな緑 ガイドブックの嘘みたいな青」


地元の道路を初めて通ったような気持ちでドライブしてみたら、景色が異常に綺麗に見えた これって気づきとは違って、実はとても暴力的な転換ではないかと感じて書いたのが『望郷』 キャパシティのシティの部分 言葉ってこういう遊びしかしていない 思い出すことと会うこと 過去と今とも言えなくて、肉が残った骨と剥製ほどの違いらしい

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