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掌篇小説|なんでもない日
綿シャツにアイロン掛けて弥生尽
アッシュ
小鳥のさえずりが聞こえる、日の出直前。南向きの部屋はまだ薄暗く、ひんやりしているけれど、陽が射しはじめたら、昨日より、ずっと暖かくなるだろう(予報通りなら)。
もとは倉庫だった、天井の高い、白い壁の広い部屋。半分だけ開けたクリーム色のカーテンは、窓が大きいので天井から吊るされ、舞台の幕のようで。壁のほとんどを覆う棚には、半分が美術書の類い、のこりはジャズのレコード。
静かな部屋に、ひとつの、長身できゃしゃな人影が動いている。テーブルにバスタオルを敷き、シャツにアイロンを掛けているらしい。
黒い髪。寝不足の青白い頬。白いTシャツの中で泳ぐような薄い胸。折れてしまいそうな二の腕。膝上で裾をロールアップしたデニムショーツは、淡いブルーグレー。少年めいた、細くてまっすぐな脚が伸び。スニーカーは、VANSの黒いオーセンティック。
パスタ鍋で煮洗いしたシャツは、清潔で真っ白だ。霧吹きの、水を吹く音、アイロンを当てられて、吹きつけられた水の蒸発する音、熱せられた木綿の布地の匂い。
袖口のタックの部分が思うように仕上げられないし、ボタンとボタンの間に逐次アイロンの先を滑りこませるのは、案外と手間取る。微かな音、慣れないぎこちない動作、ひたむきな表情は、どこか儀式めいて見えなくもない。
ずっと年上の恋人は、まだベッドから起きてこない。教えてもらった、たくさんのこと。画家や演奏家の名前と作品、歴史、技法とか。心を充すうれしさ、絶望、回復する術だとか。
シェイクスピアやアガサ・クリスティならば、邪悪な何かに反応して親指を疼かせるのだろうけれど、ピピンの親指(ただし足の)は、新しい季節の訪れにざわめいていた。今まで、季節の到来を待たずに、自ら迎えに行かなくては気がすまなかったのに。
つまり、ここには長く居すぎたのだ。
アイロンを置き、まだ熱を帯びたシャツをはおる。冷蔵庫から取り出した水を飲み干し。咽喉に、胃に、その冷たさが通過し蓄積するのを感じる。太陽が登り、南の窓も明るみはじめた。感傷にひたって、思い出深い部屋を見まわすこともなく、デイパックを背負う。
切り立ての髪を気にして、棚に飾った凸面鏡をのぞきこみ、指先で前髪を整える。が、すぐに首を左右に振って掻き乱した。
ピピンはドアの脇に置いてあったスケートボードを持って、通りに出る。そして、滑りだす。もう二度と戻らない部屋を、振り返ることは決してなく。
三月の終わり。なんでもなくて、かけがえのない日の朝。
〈 了 〉
tokyo no.1 soul set 『夜明け前』
勝手にコラボしました。
『 綿シャツにアイロン掛けて弥生尽 』
綿のシャツにアイロンを掛けるなら、おそらく皺の目立つ白。その清潔さ、熱せられた木綿の匂い、手触り、指先に伝わるアイロンの熱さなど、新しい季節のきれいな空気を感じました。うっとりです。さすが、アッシュさん。
勢いで仕上げれば良いのに、もたもたして弥生どころか、文月が尽きてしまう時期になってしまいました。
アッシュさん、いつも素敵な作品をご披露くださって、ありがとうございます。何気ないようでいて、かけがえのない、美しい情景を見せていただいています。
ソウルセットの楽曲は、この小説を書くにあたってイメージを広げる材料にしたわけではなくて、『この町を出ることにする』というフレーズがあったので。
これで、あなたもパトロン/パトロンヌ。