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パリコレッ!ギャラリーvol.8安部寿紗「偶然の賜物」

展示のお知らせです。
とても気合の入っている展示をします。
制作を始めてからずっとある思い、自分がアーティストなのか、やっていることが美術なのかわからないまま制作と展示を繰り返してきて、そこと向き合いながら制作した作品です。
「美術っぽくしてる」「小手先だ」「美術以外に打ち込めるものが見つかればいいのにね」「美術じゃなくてもいいんじゃないの」そういう言葉が胸に溜まっていて、息苦しくなっていました。
そもそも、美術は憧れであり、美術教育も受けないままに憧れているものに手を伸ばしているようなものだったので、「美術っぽくしてる」はそういうことなのかな、と思いました。
それでも、勇気の湧く言葉もあり、プラトンの饗宴に記されているアリストテレスの言葉「愛は自身の存在を永遠なものにしようとする欲求である。」「愛がもとめるものは、永遠なる美のイデアであり、美の大海に出たものは、イデアを見、驚きに満たされる。これを求めることこそが最も高次の愛である。」わたしは美術が何かわからない、それは美術っぽくしているだけで美術ではないと言われることに胸を痛めていたけれど、美に憧れ、魂の懐妊をする、それこそが詩であり、哲学であり、芸術であり、美への欲求こそが愛であるという、その文章に心から救われました。

それからアメリカの芸術家「ジャン=ピエール・レイノー」の仕事にも励まされました。園芸学校を出て庭師をしていたレイノーが、植物の死を生産してしまうその仕事に違和感を覚え、植木鉢にセメントを詰めました。そうすることでもう、植木鉢は生死を生産する場では無くなり、そしてレイノーは自由になり、園芸と手を切り、文化に移行してゆく。
それから「植木鉢」はレイノーの作品の中で何度も何度も登場し、以下は引用なのですが【私は植木鉢が好きだったものですから、植木鉢が自分の造形言語になりうるだろうと考えたわけです。反復することによって植木鉢を磨耗するのではなく、逆にそれを自分の主題の形式として創作の中心に据えたのです。30年もの間、飽きることなく植木鉢を作り続けていますが、こんなにひどく熱心なのも、それが単なる繰り返しではなく、一つのかたちの探求に他ならないからです。】
(1989年、アメリカでの巡回展の際に制作されたインタビューテープ邦訳より)
散々「お米じゃなくてもいい」だの「お米もうやめたら」と言われ続けてきた私にとって、励みでしかない。私自身、その小さい楕円形のかたちに惹かれているただそれだけのことを、無理にコンセプト付けしたり、それこそがまさに美術っぽくしている、だったのだと思うのですが、ただそのかたちの探求を誰に邪魔されようとも屈せず(レイノーはその後植木鉢が植物が育つ場所であるなら人間が育つ場所は家であるとして、家を20年に渡り制作し続けその過程を公開して、20万人以上もの人が訪れ、邪魔される経験もたくさんした上でその後、家の公開を中止し、純粋に自分のためだけの制作に入る、、、。)

私はこれからもずっとこの小さい楕円形を描き続けていこうと思いました。
これが点や丸ではなくて、どうしてもこのお米粒のかたちに惹かれているのだから、もうその行為に理由をつけることはやめ、純粋な制作に入りたいと思います。

だから、今回の展示では、ただ自分が美しいと思い作ったものを並べるだけのことをしました。
私が一つのものに固執し、続けてきたことが人の目に狂気じみて見えたり、宗教のように見えたりしたらいいなと思います。
母が宗教にのめり込んだように、私はこの「お米」の作品にのめり込んだのです。


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