「歌占い」の真似事をする。

個人的和歌ブーム到来中。

 「令和」になって早5年と半年が過ぎた。
 時の経つのは厭に早いものである。

 5年前、令和という年号が万葉集の一説からとられたものである、という言説から
 なんとなく「和歌ブーム」が来て、そのまま去っていった気がする。

 尤もそれ以前は、漫画「ちはやふる」から競技かるたのブームが来て、百人一首が注目されたこともあるが、
 それも一過性のブームで終わったような気がする。

 メディアの言う「流行」ほどアテにならぬものもないが。
 まあ、書いて字のごとく、流れ行く、というわけか。

 一方、Twitterではの140字の文字数制限の中で物語を紡ぐ「140字小説」というジャンルが定着しているし、
 昨今そのTwitterのアレソレで、移行先のSNSとして注目を浴びているThreadsとやらは500文字が限度であるようだから、
 次は「500字小説」なんてものが出てくるかもしれない。

 三十一文字から始まって、
 限られた文字数の中で「いかに誤解なく、美しく、己の主観を伝えるか」
 
という手法は日本人の琴線に触れやすいものなのか。

 何であれ、世界一短い詩歌などと言われる和歌というものは
 興味深いものである。

 ちなみに、17文字からなる俳句については、
 「17音節」と置き換えてアメリカの国語(即ち英語)の授業で用いられているという。
 日本人に限らず「制限付きの言葉遊び」というのは魅力的なものなのかもしれない。

 などと、高尚ぶっているのは、
 昨今の文具ブームに乗っかって「なぞり書き」なるものから、
 5年遅い「和歌ブーム」が私に到来しているからである。
 所詮はミーハーというわけだ。

お手頃「なぞり書き」

 最近、文房具屋に行かなくても書店でガラスペンやつけペンが買えるようになってきた。 
 「はじめてのガラスペンセット」なる素晴らしいものが、各出版社から発売されるようになったのだ。
 大抵1000円台で、ガラスペンとインクがセットになっている。
 万年金欠を自称する私でも手の届く値段だ。

 これに倣うように「なぞり書き」の本も増えてきたように思う。
 流行り病の「おうち時間」と美文字ブームも相俟ってか、文字をなぞる本自体は特段珍しくはなくなったように思うのだが、
 「ガラスペンでなぞる」というキャッチフレーズ付きのものは、増えた感覚がある。

 さて、手ごろなガラスペンのセットを購入した私であるが、
 これをさらに楽しむために「なぞり書き」の本も購入した。

 ゼロから「何かを書く」というのは、noteに限らず大変なのだ。

 ガラスペンとインクを使いたいと思ったとき、
 「書くことが浮かばないのでやめる」ということがままある。
 とても歯痒い。

 しかし、「なぞり書き」の本は「何を書くか」はもう決められている。
 塗り絵のようなものだ。
 なぞりたい言葉を選らんで、なぞればいい。

 版元オリジナルの文章をなぞる本もあれば、
 名言・格言や有名な小説・詩歌をなぞる本もあれば、 
 和歌をなぞる本もある。

 「ガラスペンでなぞる」と書いてあろうが、
 「ボールペンでなぞる」と書いてあろうが、
 気分に合わせて、使いたいインクに合わせて、使いたいペンの種類に合わせて、
 好きに本と言葉を選べばいい。

 とても気楽なものである。

「歌占い」の真似事をする。

 さて、今回私がなぞったものはこれだ。

 百人一首68番、三条院の歌である。

 三条院が退位する間際に詠んだ歌とされ、
 内容もまた、退位の決意とそれまでの道のりを振り返り、嘆いたものとされる。

 これらの意味を知ってなぞったわけではない。

 書物占い・ビブリオマンシー歌占いの真似事をして、
 これが「選ばれた」のである。

 書物占いは、書物を適当にめくって開いたページにある文章やシンボルから占うもの、
 歌占いは和歌を使って託宣を得るもの、
 として細かいことは割愛したい。

 厳密には、書物であれば何でもいいということも、
 百人一首を使って占うこともないのだが、
 今や占いは、所詮「偶然」と「娯楽」を交えて楽しむものだ。
 取り敢えず何事か占ったと思ってもらえれば十分である。

 歌の意味や歴史的な背景の細かいところは門外漢なので、
 本に書いてあることを鵜吞みにする外ないのだが。

 「ああ、なるほど」

 というのが、率直な私の感想だ。

 私は確かにこの頃とても疲れている。
 何かから逃げ出したいとも思っている。
 だから、こうして現実逃避の時間を無理やりに作ろうとしている。
 引き伸ばしたくとも引き伸ばせないタイムリミットが迫ってきている。

 そもそも今、私が置かれているこの状況は「心にもあらぬ」ことである。
 新月の近いこの頃には恋うべき「夜半の月」すら見えないが、
 それもまた先の見えぬ「憂き世」に「ながらえる」が故だろう。

 これらのことが何を示しているのか、詳細は語りたくない。
 私のそれと、歌のそれは、比べるべくもないからだ。
 しかし、なんと詮無い事かと他人の一笑に付されることは我慢がならぬ。
 とかく、私は「今」苦しいのである。

 そう。
 「苦しい」のである。

他人の言葉を借りる。

 この「苦しい」は馬鹿正直に真正面から受け止めるのも、苦しいのである。
 大抵の人間にとって、己に降りかかる艱難辛苦を正面から受け止めることは苦行であろう。

 そうでないというものがあれば、嫌味ではなく、
 是非、私に苦行を苦行としない方法を教えてほしい。
 「器用だが正直な生き方」というものを教えてほしい。

 少なくとも、私にはいかなる感情であれ正面から受け止める他に、
 己の感じ方を受けとめる方法を知らない。

 そんな私と、私の感情の緩衝材が「他人の言葉」である。

 当然、どんな他人の言葉でも良いというわけではない。

 「その時」「その状況」「その状態」
 「その言葉」を必要としている私にとって有益な言葉でなければ意味がない。

 三条院のその歌は、今の私にとって「必要な言葉」である。
 たとえ、上辺だけをあげつらった粗末なものであれ、
 私はそう感じるのである。

 どんなものであれ「専門家」だの「知識人」だの「オタク」だのがいるものに、
 ズブの素人が口を出すものではないのだが。

 「偶然」と「娯楽」に混じり訪れたこの歌を、私の手でなぞりながら、
 遠い昔に生きた人の言葉が「私の苦しみ」を柔らかく代弁していると感じる。

 この瞬間、三条院の歌は、私と私の感情の緩衝材となり、
 私が私の苦しみを受けとめる手伝いをしてくれる。

 こういう時、私は、さらに言葉を知りたいと思うのだ。

 何かのセリフでもいい、小説の一説でもいい、
 和歌でも、故事成語でも、なんでもいい。

 他人から押し付けられる言葉ではなく、
 自然とこの心に染み入ってくる
 私の代弁者となる言葉をもっと知りたいと思うのだ。

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