#0050【孝謙天皇と相次ぐ反乱(日本、8世紀後半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

#0049の続きとして 、孝謙天皇についてお話します。

聖武天皇の跡を継いだ孝謙天皇は、現時点で唯一、女性皇太子から天皇に即位した人です。それまでも、この小話で取り上げてきたとおり、女性天皇はいました。しかし、あくまでも中継ぎとして予定せずに天皇に即位することになったので、予め天皇になることが決められていた皇太子になった事例はありませんでした。

彼女は738年に皇太子となります。その後、749年に父聖武天皇から生前譲位を受けて天皇となりますが、皇族の中には彼女の皇位継承を認めない勢力がいました。特に大仏建立の前後で大地震や天然痘の流行などから不穏な空気が流れており、実際に反乱が起きなくても、関所の封鎖が幾度となく行われるなど反乱の予防策が取られて社会的に不安定な時代でした。

上皇となっていた聖武が756年になくなると、孝謙天皇の存在に反発していた勢力による「橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変」が発生します。

これは、孝謙天皇の立太子時点から不満を持っていた橘氏(元皇族が臣下になった一族)を中心に計画された反乱でした。しかし計画が事前に察知されたため、首謀者たちは捕縛され拷問の上で大半が殺害されました。

こういった情勢下において孝謙天皇は758年には自ら皇太子に指名した淳仁天皇に、天皇の位を譲ります。孝謙天皇は未婚で実子がいません。皇族の中で後継者争いが起きてしまうことを未然に防ぎ、自分が後見することによって元天皇としての権力を握りながら安定した政治運営を行おうと考えていたと思われます。

淳仁天皇は、上皇となった孝謙に仕えます。彼は光明皇后の甥として権勢を奮っていた藤原仲麻呂(恵美押勝:えみのおしかつ)の娘婿でもあり、藤原氏との繋がりもありました。760年に光明皇后が死去すると、孝謙上皇による淳仁天皇と仲麻呂に対する圧迫が強まります。762年には孝謙が信頼している道鏡(どうきょう)を淳仁が批判したことをきっかけに孝謙の怒りを買ってしまいました。淳仁は孝謙によって天皇大権を奪われてしまいます。

これに焦った仲麻呂は764年に反乱を起こしましたが、孝謙上皇は藤原氏以外の諸勢力の力を糾合してこの反乱を鎮圧し、仲麻呂は琵琶湖畔で戦死して果てます。

仲麻呂に呼応しようとしていた淳仁天皇は淡路島へ流されることとなりました。上皇であった孝謙は再び天皇に即位(元天皇が再度即位することを「重祚:ちょうそ」と言います)しました。二度目に天皇になったときの名前を称徳天皇といいます。

再び自身が天皇の地位に就いたため、再度自分の後継者問題が起きます。その問題に彼女はどう向き合ったのか。続きは金曜日に。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)

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