#0094【ファショダ事件(英仏対立、19世紀後半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

今週は第一次世界大戦前夜における欧州列強の対立を取り上げていきたいと思います。

まずは英仏対立の「ファショダ事件」を取り上げます。

ファショダは現南スーダンに位置する地名です。

19世紀末から西欧によるアフリカ大陸の探検が行われ、それとともに植民地化も進んでいきました。

中でもイギリスは1815年にアフリカ最南端にケープ植民地を獲得、1875年にはスエズ運河を領有し、1882年にエジプトを事実上の保護国と勢力を拡大していきます。

エジプトの首都カイロとケープを結ぶ導線確保のためもあり、イギリスはアフリカ大陸を縦断する「大陸縦貫政策」を取ります。
ケープから北上し、カイロからナイル川を南下しながら植民地を広げていく政策でした。

イギリスのライバル国であるフランスも1830年にフランスの地中海対岸にあたるアルジェリアに進出します。
アフリカ大陸西端に位置するセネガルを領有し、さらに紅海(アフリカ大陸とアラビア半島の間の海)の出口であり、地中海からスエズ運河を経由してインド洋に出るための要衝であるアフリカ東部のジブチも確保しました。1894年のことです。

フランスは中部・西部・東部に勢力を保持しましたので、これらを結びつけるためにアフリカ大陸を横断する「大陸横貫政策」を取ります。

フランスは、武装探検隊200名を派遣し、アフリカ西部のコンゴからウバンギ川を遡上してジャングルと砂漠地帯を超えて、1898年7月10日にナイル河畔のファショダに到着しました。

一方のイギリスも軍の船隊がナイル川を南下して2か月遅れの9月18日にファショダに到達しました。

フランス軍とイギリス軍が遭遇して、あわや武力衝突かと思われましたが、双方の司令官が会見を行い、事態を本国政府に委ねることで合意しましたが、緊張を孕んだ状態が維持されました。

事態打開を検討したフランス外相は、イギリスとの武力衝突を避けるべきと判断しました。

その背景には急速に勢力を拡大していたドイツとの衝突に備える必要があるとの認識があったからです。結局、フランスはファショダから1899年に撤退することにしました。

英仏の衝突は避けられ、むしろこの結果を受けて融和の方向へと進んでいきます。

植民地獲得競争では、インド・中国・アフリカと対立を続けてきた英仏の緊張関係が緩和され、1904年には英仏協商が結ばれることになりました。

イギリスはエジプト・スーダンにおける優越権が認められました。フランスは大陸横貫政策の遂行を断念する形となりましたが、モロッコにおける優越権を手にすることになりました。

英仏の緊張緩和がなされた一方、1871年にドイツ統一を成し遂げたドイツ帝国が新しい緊張をもたらすようになります。

以上、本日の歴史小話でした!

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