#0104【後三条天皇と荘園整理令(日本、11世紀中盤)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
月初の日本史通史シリーズです。今日は藤原氏の全盛期が過ぎたのちの歴史の流れを追っていきます。
藤原氏は自分の孫を幼年期から即位させて、孫をコントロールしていましたが、後三条天皇は藤原氏を母に持たないことに加えて30代という壮年期に即位したこともあり、藤原氏から距離を取る政策の実行を即位早々に決断しました。
藤原氏の経済基盤である「荘園の整理」に着手します。
荘園とは何かを再確認しましょう。
当時の土地制度の前提は、公地公民制です。すべての土地は国有地であり天皇家・国家のものです。その土地を国民に貸与し、収穫物の一部を租税として国庫に収めさせました。
これでは、私有財産を増やすことができません。藤原氏などの高級貴族たちは、743年に墾田永年私財法を制定して開墾した土地の私有を認める法令を制定します。新しく開墾した土地を荘園(Garden)として私有するにとどまらず、荘園における収穫物に対して租税徴収拒否権まで得ました。
結果、荘園が増えると大貴族は潤うかもしれませんが、国庫には寂しい風が吹きすさびます。
一方で荘園は無尽蔵に認められるものではなく、身分によって保有できる広さ等に限りがあり、正式に免税となるためには正当な手続きが必要でした。
藤原氏は政治家として国家財政の問題もあり、何度か荘園整理令を出して、権利関係の確認等をし、不明瞭なものがあれば国庫に収納していきました。
しかし、取り締まる側の藤原氏自身が大荘園主なのです。
藤原道長時代に、荘園整理を行った際のことですが、道長は「勧学院領(道長の荘園のひとつ)については多少不都合な点があっても特別な取り計らいをするように」と指示しています。
これでは、いくら整理令を発出したところで成果には結び付きませんでした。
後三条天皇は1069年に延久の荘園整理令を出し、記録荘園券契所を設立して反藤原氏の中級貴族を登用します。彼らの手によって徹底的に荘園を権利関係の確認・調査が行われました。全ての荘園(藤原氏の息がかかったものも含め)から券契(権利証)を提出させて、不正な荘園は全て没収の上、天皇家が所有することにします。
この延久の荘園整理令によって、不正な荘園が一掃されましたが、逆に残った荘園は正当性を確保することになりました。また没収した荘園を天皇家が私有することになり、公地公民制の前提が大きく毀損することとなりました。
藤原氏の経済的・財政的基盤が損なわれた一方で、天皇家の経済力が増強されました。
この結果、藤原良房以来約200年の間、藤原氏が握っていた政治権力が天皇家へと戻ってきました。
大改革を行った後三条天皇ですが、1068年に即位してわずか4年で退位して藤原氏の妃との間に生まれた白河天皇に譲位します。
1072年に即位した白河天皇は既に二十歳と立派な成人でした。
上皇となった後三条天皇は翌1073年に40歳の若さで没してしまいますが、彼が残した政治遺産(レガシー)を息子の白河天皇がフル活用し、時代は再び天皇家を中心に回りだすことになります。
以上、本日の歴史小話でした!
========================
発行人:李東潤(りとんゆん)
連絡先:history.on.demand.seminar@gmail.com twitter: @1minute_history
主要参考文献等リスト:
https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
※本メルマガの著作権は李東潤に属しますが、転送・シェア等はご自由に展開頂いて構いません。
※配信登録希望者は、以下URLをご利用ください。 http://mail.os7.biz/b/QTHU
========================
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?