#0049【大仏建立(日本、8世紀前半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

聖武天皇を中心にして奈良の大仏建立に至る日本の歴史を概観します。

聖武天皇は、724年に即位しました。即位後の729年には藤原不比等の娘(光明皇后)を皇后にしました。皇族以外から皇后が出た初めての例になります。古代においては「中継ぎ」として皇后が即位したり実際の政治を運営したりする事例があったため、皇族であることが必須だったのです。

光明皇后は悲田院や施薬院などをつくり貧民や困窮者への救済活動を行います。仏教に深く帰依したことによる活動だったと伝えられています。

藤原氏は自家の勢力拡大のために前例を破って光明皇后の立后に成功したのですが、ここで一つ触れておかなければならないことは「長屋王(ながやおう)の変」です。長屋王は聖武天皇の叔父にあたり、有力皇族の一人でした。彼は皇族の勢力維持のために藤原氏からの皇后立后に激しく反対します。

不比等の息子たち(藤原四兄弟)は自分の妹を立后するために、長屋王を虚偽の謀反の罪で自害に追い込みます。しかし、立后成功後、藤原四兄弟は次々と疫病で没します。また、九州では反乱も起きて世情不安が増大します。

この政情不安に対して、仏教で何とか国家を安泰に導くことができないかと考え、聖武天皇と光明皇后は鎮護国家の考えに基づき、日本各地に国分寺と国分尼寺の建立を命じます。

また、日本には仏教における正しい戒律(仏僧として守るべきルール)が伝わってきていないことから、遣唐使を派遣し日本へ戒律を伝える人を求めました。この求めに応じて、唐から密出国してまで日本にやってきてくれた唐の高僧が鑑真(がんじん)です。彼は唐招提寺(とうしょうだいじ)というお寺を与えられます。鑑真は、そこで日本における戒壇(戒律を授ける場所)を設立し、仏僧が守るべき戒律を伝えていきました。

仏教による更なる国家安寧のために世界最大級の金属(銅)製大仏建立にも着手します。天皇家による命令だけでなく、民衆に人気のあった僧侶の行基(ぎょうぎ)の助けも得て、743年に奈良の大仏は誕生しました。

聖武天皇の時代は遣唐使船による海外交流なども盛んだった結果、日本にはシルクロードの終着点として多くの文物が集まりました。聖武天皇の死後、遺物を蒐集(しゅうしゅう)した正倉院には今も当時の品物が残っています。一般公開されて展覧会が催される際には多くの人々が集まります。

そこに収められている品物の中には、遠くペルシャ(現イラン)からもたらされたものもあり、往時の異国情緒が偲ばれます。

聖武天皇は光明皇后との間で男の子に恵まれなかったため、自分の娘を皇太子として即位させました。過去に女性の天皇は何人も誕生していますが、全て臨時登板、ピンチヒッターの中継ぎでした。

予め皇位継承者として正式に皇太子となったのは、聖武天皇の娘が現時点では女性として唯一の事例となります。彼女は聖武天皇存命のうちに即位します(孝謙天皇)。父は上皇となりました。これも男性天皇の生前譲位の初めての事例です。

752年に奈良の大仏が完成します。目に墨を入れる大仏開眼の儀式には、孝謙天皇、聖武上皇、光明皇太后が並んで出席しました。建立に尽力した行基は完成を待たずに亡くなっています。

国家安寧を企図して建立された大仏でしたが、その後も古代日本の混迷は深まっていきます。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)

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主要参考文献等リスト:

https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2

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