#0095【モロッコ事件(独仏対立、20世紀初)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

No.94の続きです。英仏の対立は緩和されましたが、新興勢力のドイツと新たな緊張関係が発生しました。

ドイツは長らく国内の統一が進みませんでした。
ドイツ民族の国家としては、プロイセン王国、バイエルン王国、オーストリア帝国さらに各都市国家に分裂した状態でした。
これをプロイセン王国の宰相ビスマルクが統一運動を進めていきます。

ビスマルクは1862年にプロイセンで宰相の地位につくと「鉄血政策」という富国強兵政策を進める一方、ドイツ統一については小ドイツ主義をとります。これはオーストリアを除いて統一運動を進める方針を指します。

1866年の普墺戦争(プロイセンとオーストリアの戦争)でプロイセンが勝利するとオーストリアの影響力を排除することに成功します。
ドイツがプロイセン主導のもとで統合されて、ヨーロッパのパワーバランスが崩れることを嫌ったフランスはプロイセンと普仏戦争を戦いますが、1871年に敗れてしまいます。

フランスとの戦争にも勝利し、プロイセンはドイツ内での優位性を確立しました。

これにより、プロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となる「ドイツ帝国」が成立します。
政治の実権をビスマルクが握りますが、ドイツ帝国成立後は、いたずらに敵対関係を作ることなくフランスを外交的に封じ込めることを優先します。海外植民地の獲得競争からは一線を引いた態度をとります。

ヴィルヘルム1世が1888年に死去したのち、後継者のヴィルヘルム2世とそりが合わなかったビスマルクは1890年に罷免されてしまいます。

ヴィルヘルム2世は海軍力の増強と海外植民地の獲得に精力を傾けます。

1904年に英仏協商の成立でフランスの優越権が認められたモロッコに、ヴィルヘルム2世は突然訪問します。1905年3月31日のことでした。
フランスのモロッコ進出を牽制し、モロッコに対する優越権を国際会議の場で議論すべきと要求しました。

フランス国内ではドイツとの再戦論も出ていましたが、当時のフランス首相は再戦論者を更迭して1906年1月にスペインのアルヘシラスでの国際会議にかけます。

結果として、ドイツの思惑は実らず、モロッコにおけるフランスの優越権が欧州列強から追認される結果となりました。

モロッコを諦められないドイツは、1911年にモロッコで起きた内乱に乗じて、軍艦を派遣して威嚇行為を行いました。

モロッコをドイツが放棄する代わりにフランス領コンゴを引き渡すよう要求してきました。フランスはイギリスの支持を受けて独仏開戦も辞さない姿勢をみせますが最終的には交渉で解決し、フランス領コンゴの一部がドイツに譲渡されました。

翌1912年にモロッコは正式にフランスの保護国となり、モロッコの領有権争いは終結を見ましたが、仏独の対立・相互不信の火ダネはくすぶったままです。

以上、本日の歴史小話でした!

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