らしさ。
らしさ。
この三文字には随分と縛られながら生きてきたように思う。勿体ないことに、自分で自分を“らしさ”で縛り、自由を奪ってしまうのだ。
noteさんが「ご自由にお書きください」と勧める。規律を守ること、責任が伴うこと。あとはご自由にということ。
読むことも書くことも習慣としてこなかった私は、言葉が湧き出る泉のようなものは持ち合わせてない。
それでもわくわくした。私は自由を求めてnoteを始めたんだと思う。
大量の記憶のレゴが入ったケースを傍らに、じゃらじゃらと、時には底の方までかき分けながらパーツを探し記事を作る。
感情の乗った文章は、不格好ながらもそこそこ品良くまとまったものもあれば、言葉遣いの見苦しさに羞恥を覚えるものもある。
しかし、完成したその塊は、時に恥を晒すものであっても縛りを解いた自分の姿、とてつもない自由を感じる。
*
私はここ数年で大切なものをいくつも失った。もしもnoteを始めるのが10年前だったら……時折そんなことを考える。
夏に見た映画「BLUE GIANT」で蘇った、音楽に囲まれた若い頃の記憶。
“自分らしさ”を探して揺れていたあの頃、テープが擦り切れるほど見た映画をふと思い出した。
きっと誰かが……奇しくも10年前に書かれた記事を見つけた。同じように映画を懐かしむその記事には、まるで私をもてなすかのようにあの曲が用意されていた。
音楽が流れ出したと同時に蘇った記憶は鮮やかで、そこには自分らしさを探しながら迷子になっている自分がいた。
“その人らしさ”で溢れる記事に触れながら、私はいまnoteで自由を感じている。それは、自分らしくいられているということ。
人生の喜びも悲しみもまだ知らない頃の自分に再会した夜、曲をループしながら堂々と“自分らしさ”を堪能した。
静かに残された記事に癒されながら、しみじみ「noteを始めて良かった」と思う夜だった。