なんだか「やった者勝ち」でもいいような気がしてきた、からの思考

 なんだか「やった者勝ち」でもいいような気がしてきた。なぜなら、結論が出せず何も進められないから。
 少なくとも思考力の粗末な自分の中では。

 ただしそれは、意思において、倫理的善を諦めることを意味する。となれば、善を願い続ける意思自体が、念々に諦めを要求され、苦しみを生み続けることになる。
 「善でありたい」と願うことすら、苦しみの原因で間断のない悪という帰結になる。
 一言で言えば、良心さえそのまま悪(苦)であると。

 親鸞は「(私は)善ができない」と語っている、と自分はあるところで耳タコほど教えられてきたが、彼は修行僧なので、この言は修行中の行動・実践上の話だと思ってきた。しかし、倫理上の善悪を構築する論理が成立できないならば、「善とは」に対し、できるできないではなく、そもそも満足いく回答が不能であることになる。(これを現実に即して表せば、あらゆる行動はあらゆる予測不能な結果を生むという意味。)また、現実にも、意思は失敗や悪を冒さねば、学ばない。であれば、“必要悪”が必要とならざるをえない。
 善なぞしていない自分が只今生きていることが、皮肉にも善不在の証拠になりえようか。人の歴史が現在まで続いていることも、論が意味を成さないことを示すだろう。

※ 「急作急修して頭燃をはらうが如くすれども、すべて雑毒雑修の善と名け、亦虚仮諂偽の行と名く、真実の業と名けざるなり。」が根拠とされる。

 以上が意味することは、生きる死ぬさえ含め「勝手にしな」。勝手にした結果として自他が苦しんだとて、そうか、というよりない。決して他を恨んではいけない。他にもたらした結果にも、それが良かろうが悪かろうが一切責任をとらないことになる。それは、良かったと誇ることも誤りだし、悪かったと恨まれることも甘受せねばならないということ。無論、戦争だの自殺だの安楽死だの、といったテーマにも回答が出せない、どうぞご自由に、ということになる。
 話を元へ戻すと、もはや「意思」を成立させると破綻をきたすため、意思とは何かであるといえず、結局意思とは何ものでもない。何ものでもないものを、「意思」と言語化したことが過ちか。ところが、何ものでもないはずのものを「意思」と言語化しても、話が通じてしまう。人が人になった際に便宜上生み出した、錯覚・錯誤のひとつだろうか。

 文章の結末としては、特段改めて強調するまでもない、人々の間で自然に考えられてきた内容だと思うが、その深みは、冷徹極まりない。人格を破壊する威力すらある。
 願わくば、「やった者勝ち」が否定されてほしいのだけど。
 (どうでもいいが、年寄りが頑固なのは、こんな諦観に目覚めてしまうからだろうか)

 ずーっと、生きていてごめんなさい、と思ってきたが、そんな懺悔も悔悟も、意味がないのだ。

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