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2021年を、「なかった年」にしないために。

今日、思い切って2021年の手帳を買った。1日1ページの、おなじみのほぼ日手帳だ。

編集の仕事をしている頃、手帳は必須だったけど、転職してからスケジュール管理はすべてオンライン上。買っても使いこなせないし、プライベートの予定もアプリで管理できるくらいの頻度だし…ということで、長らく紙の手帳からは離れていた。

それでも来年の手帳を突然、それも思い立ってえいやと買ってしまったのは、まるで2020年がからっぽな気がすることに気付いてしまったからだ。

だって、景気が陰りを見せてがむしゃらに仕事をしていたら、9月が終わりかけている。

今年、私と同じく同時期に在宅勤務に入った夫と交わしているのが、

「なんていうか、2020年って、“なかった”よね」

という会話。
いや、ないわけ、ない。私も夫も、変わってしまった世の中に懸命に適応し、暮らし続けている。生き続けている。

でも、今年のはじめに自粛生活&在宅勤務に入ってから、記憶に残っていることが少ないような気がするのだ。そりゃ、あちこちに出かけたり、新しいことをはじめたりする機会はどう考えても少なかった。それでもこれだけ身の回りのことが変化して、いろいろと思い出せないというのはどういうことだろう。

おそらく、だけれど、「場」が極端に制限されたことで、様々な記憶の紐付け先がなくなってしまったせいだと思う。記憶は場所と鮮明に結びついている。特に私の場合は、映像や写真、その土地やスポットからどうでもよい細かいことを思い出したりする。「あの日は忘れ物をしたんだった」とか。

まあそんなことは覚えていなくたっていいのだけれど、問題は覚えていたいこと、覚えていた方がいいこともあやふやに溶けていってしまうことだ。

コロナ禍で変わってしまった日常は、残念ながらもう2度と元には戻らない。働き方も生活規範も、友人や家族との距離感だってそうだ。ということは、2021年だって、こうやって「まるでなかったことみたいに」記憶がうすぼんやりとふやけてしまう可能性がある。私はそれがひどく怖かった。

もっと自分のなかに、記憶の紐付け場所をつくらねばなるまい。そこで選んだのが、手帳だ。まあ、それこそこのnoteだってよいのだけれど、私は元来手で書くこと、頭で考えて言葉を紡ぐこと、情報を編集することが好きで、曲がりなりにも生業としている。結局のところ、頭の中を整理したり、覚えておいたりしたい時には手を動かすに限る。なにより、モノとして実体があるほうが、なんだか安心な気がする。

ほとんど衝動買いに近いかたちで公式オンラインショップでポチったのは、写真家・幡野広志さんの海の写真を使ったカバーと本体のセット。遠く霞むような、静かにゆらめくような水平線をきりとった写真だ。心が凪ぐような静かな写真だけれど、どこかまっすぐな信念も感じる。ほんのり切実な私の気持ちにぴったりだと思った。

もともと幡野さんの連載や写真が好きだったこともある。『なんで僕に聞くんだろう。』で、相談に答えていく彼の言葉はそのままコピーだと思う。誰かに届くように、考えて考えて紡がれたものだから。コピーとはすべからく、「届け」という願いがこめられたものだから。届くコピーが書けるようになりたいのだ、私は。

まっさらな手帳は、そのまま来年1年の重みだと思う。書き込んでもっと重くしたり、くたくたと手に馴染ませたり。来年の時間をどう過ごそう、と思いを巡らせたり。デジタル管理に慣れた今、あえて持ち重りのする「時間」と向き合ってみたい。私はそれが届くのを、楽しみにしている。

2021年を、なかった年にしないために。豊かでも特別でもなくていいけれど、みっちりと詰まった年にするために。私は、新しい手帳が届くのを待っている。

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