『性の劇薬』を観たお話。

最後に海に残った小瓶は、いつか貴石のようになる。
波に転がされ砂に晒され、いくつもの傷が、むしろ硝子を磨いていくのだ。

私は真面目な人間であったと思う。やるべきをやり、期待されることを汲み取り、実行する。その繰り返し。
2019年は酷かった。仕事では実力以上の仕事を抱え、女性を抱くことは面倒だけどいちゃいちゃすることはしたいとか言うクズ男の尻拭いのために深夜残業を繰り返していた。命を落とすことはないけれど、死んでいた。

「捨てるなら その命 俺に寄こせ」
自死を選ぶ男に彼は言った。人生を諦めることさえ許されないような立場であるが、彼もまた、死んでいたのだろう。生きている実感を植え付ける名目で、自分が生き返りたかったのだ。

拘束に、陵辱に怯え、繰り返される強制的な快楽は、自死を選択しようとした男にとっては死のうと思ってビルの階段を上り、屋上の柵を越えようとした時よりも生を実感していただろう。経験のない特殊性癖の押し付けは恐怖でしかない。恐怖は生を最も実感できる。誕生に比べ全く夢がない分、現実的に。
更に性的な快楽は人間の三大欲求のひとつを満たす。
恐怖と快楽は、時に麻薬だ。
男は人生を諦めようとしたのであるから、その状況も諦めと反抗心とがせめぎ合っていただろう。自身の反抗心にもうどうせ死ぬ身だったからと屈して快楽に溺れ、我に返って自身の痴態を恥じて反抗し、また屈して溺れる。反復は人間を学習させてしまう。男も他ならなかった。快楽を学習した時、男は彼を理解しようと心を開く。通常は心を開いてから快楽を覚えるが、死と近いところにいた2人は、生きるために真逆の手法を取るしかなかったのだ。死が忍び寄る速さは、自分が考えるよりも遥かに速く、気付いた時には肩を叩かれているから。
フェティッシュやマイノリティに溢れ、センセーショナルでありながらも不快感がないのは、生死感についての焦点が明確であるからであろう。

私は死んでいた。泣くことも怒ることも笑うこともできていたけれど、性に奔放な所謂「裏垢」にカテゴライズされるような仮想空間の中で、自分の性的欲求に素直に生きる今と比べたら、2019年の私は死んでいた。
今まで応えられないと下品だとされた私の性的欲求を叶えることで私は様々な種類の恐怖を抱え、体の拠り所を得て、心が生きている。
恐怖のひとつは私を殺すかもしれない劇薬であるので、少なくとも、今は。

貴石のようになる予定の小瓶は、生きているのに死んでいた男と、何もかも失って死を望んだ男の未来だ。
1度死を意識した人は死から逃れることは稀だから、また死にたくなる時が訪れるかもしれない。しかし、数日間の生と死の狭間で生きたいと思った2人は、たとえこの先別々の道を歩む事になっても、1人になっても、貴石になって生きる未来しかないのだろう。

劇薬は、毒であると同時に薬であることを実感する作品であった。

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