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表現をする、ということ。

 先日、ロームシアター京都へ「ふくすけ」を見に行った。
 おそらく感想等は後日詳しく書く。
 
 戯曲で何度も読んだこともあるし、闇の力を利用して公演映像を見たこともあるのだが、それでも今回生で松尾スズキという人の本や演出に触れて、非常に感動してしまった。

 勿論、作品の良さや役者の素晴らしさにも目頭が熱くなったのだが、私はどちらかと言えば”演劇”というものが持つ熱量にやられてしまったのだと思う。

 昨年の12月から、今年の8月にかけて、新作の朗読劇を3本書いた。
 このペースは、これまでのスランプ期を思えば、本当に凄いスピードである。
 それだけでなく未公開の脚本(漫才用)や、プレゼンテーションなど、ここ一年ほどの私は精力的と言って差し支えのない創作活動を行ってきた。

 けれど、気がつけば手段が目的になってしまっていて、魂みたいなものを割とぞんざいにしていたのかもしれないと思ってしまったのだ。ここでいう魂というものは「作品で伝えたい想い」や「怒り」や「悲しみ」、そして「切なさ」などである。いや、正確に言えばここ一年で作った作品にも魂や怒り、悲しみは”ある”のだが、配分が足りないというか。もっと作品を、そんな魂で囲ってもいいな、と思った。

 そのエネルギーは、演じる役者にも、見ている観客にも伝わる。物語を上手に仕上げる必要はない。いや、本当はあるけど。もっと魂を纏わせたっていい。シャーマンキングのオーバーソウルよろしく。その肉薄した生々しさに、人々は心を震わせる。

 私の表現の原体験は、「怒り」や「悲しみ」や「切なさ」のはずだ。それを忘れてはいけない。満たされない、報われない。その中から生まれるハッピーエンドや、笑いにこそ力は宿るということを。

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