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#1 雨宿り

『…あら、雨?』
いつの間に降っていたのか。
読み耽っていた本の世界から連れ戻したのは微かに屋根から伝わる雨の気配。
今日は朝から空は鉛色で、空気も止まってしまったかのように風がなかった。
いつ空が泣いてもおかしくないような日ではあったけど。
読んでいた本をテーブルに置き、すっかり冷めてしまったコーヒーを口に含む。本を読んでいた姿勢で固まっていた首筋は生物の滑らかさをすっかり忘れてしまったようだった。
そんな中で口に含んだコーヒーはいつもよりも苦味を増して感じて早々に喉に押しやった。
本に夢中になってしまったとはいえ、やはりコーヒーは淹れたてに限るとカップを戻す。
体をほぐそうと椅子から立ち上がると板間の床が僅かにぎしりと湿気を含む家鳴りを立てた。
そのまま体を伸ばしながら板間から見える大きなガラス戸の縁側までいって、ようやく微かにしとしとと雨が葉を揺らしているのが見えたが、雨粒は霧の一歩手前。
これでは気付かないのも無理はない。
屋根や壁を叩く程の雨音はなく、ただ静かに染みてくるように降っている。
気付いたときには緑は濡れてより深い色になり、鉛色の雲は厚さを増しているようだ。
これは今日は一日中空はこの調子かもしれない。
気持ちのよい晴れの日にはガラス戸からいっぱいに日差しが差し込み、洗濯物も乾きやすいし、日差しを遮る簾を下げて昼寝でも出来そうな縁側の小部屋も今日は冷たい色に染まっていた。


(コーヒーを淹れ直そう。)
板間に戻ろうと縁側に背を向けてテーブルに向かう最中、ふと、異変に気付いた。
湿気を多く含む空気のせいで古民家の黒い床も、畳のある奥座敷も少し湿度を吸っているような感触はしたが、それにしては微妙に違和感がある。
例えばそれはいつの間にか部屋の中に自分以外の存在が増えたような…そんな空気感だった。
そんな気付くか気付かないかの空気の違いに、一応見ておくかと板間の奥にある畳の奥座敷へと進んでみた。
奥座敷はいつもは空き部屋だが、この古い家に度々訪れる珍客たちの為の部屋でもあった。
いつも手入れをしているから、いつもと違う微妙な気配にも気付けたのだろう。
襖に手をかけてさっと開いてみると、滑りのよい襖は勢い余って柱に当たって少し跳ね返った。
すぱーん!と部屋中に響いた音に奥座敷にいつの間にか気配なく訪れていた客人は重そうに頭をもたげて家主を見上げる。
(なんじゃ、娘。たまげたのぅ。)
『いらしていたの。』
奥座敷にいたのは苔むした傘を被っている翁だった。

皺の刻まれた顔は木の皮のようで、頭に被っている傘は苔の他にも茸が生えている。
正直その様子を見るに傘の役割を果たしているのか疑わしい。
水を吸っているのか傘の縁には滲み出して溢れた水が水滴を作っているし、重そうに頭をもたげたのも分かる。
その傘に隠れて顔の上半分は見えないが、家主もまた顔に浮かべた驚いたような表情ににいっと笑った口元に黄ばんだ歯が見えた。
そして、この翁の座っているその場所だけ畳の色が濃くなっている。
濡れているのだ。
正体が分かってしまえば何のこともないと家主は緊張に張り詰めた肩を落として、深く息を吐きなが微笑んだ。
『お声がけくだされば良かったのに…。』
奥座敷へと続く襖を開け放ち、縁側から板間へ、板間から奥座敷へと雲で和らいだ日の光が入れる。
(書物に心を飛ばしていたように思ったでな。)
翁の言う通り、確かに今日は長いこと書物に中に迷い込んではいたが、客人の来訪を無視するほど大切な世界ではないと家主は思っていた。
暇を潰すためにする読書と、空いた時間を誰かと共にするのでは、全く違う。
『それでも、お茶くらいはお出しします。
いつものでよろしい?』
(よいよい。そう心を砕くな。ほんの一時だ。)
『ほんの一時だからです。そのままでお待ちになって。』


板間の隣にある台所に行くと鉄瓶で沸かした時に余ったお湯を念のためと入れていたポットを確認する。
お茶を淹れる分には十分な量だった。
戸棚の奥から取り出したのは度々訪れる来訪者専用の茶葉。
急須の中に入れてお湯を回し入れ、茶葉が舞って柔らかく開くまで少し時間を置く。
(あぁ、そう言えば…。)
お茶の待ち時間の間にふと思い出して戸棚の反対側を開くと1番手前に目当てのものを見つけて手に取った。
箱から出して外装を指でどうにか切り、小さく切り分けてお皿に盛り付け、赤いお盆に載せた。
そこでお湯を入れたままの急須を思い出し、急いで湯飲みに中身を注ぐと思ったよりも濃く出たような色合いに時間が経ち過ぎたかと思いつつも、鮮やかな朱塗りのお盆に黒く品がある湯飲みの濃い茶と茶請けの平皿のセットがものすごく様になったように見えて、ひとまずの満足感を得た。
湯気をたてるお茶と茶請けの載った盆を持って戻ると翁は変わらず奥座敷で静かに片膝を立てて座っている。
今回は静かな静かな訪問だった。
『お待たせしました。』
座敷に上がり、お盆を挟んで翁の隣に座る。
翁の周囲は畳に水が染み込んでしまっているためにあまり近くに座ることは出来ない。
お茶を飲むには少し離れているかな?という距離感で膝をつき、手を伸ばしながら翁の前に茶飲みとお茶請けの皿を差し出した。

(娘、お前の声は大きい。)
翁は今度はぼんやりと奥座敷から板間の更に向こう、縁側のガラス戸から外を見つめたまま呟く。
(何に苦心しおった。)
『…こちらを。』
そんなに騒がしかったかしら?と思ったが、まぁ、確かにお茶を淹れようとか茶請けの存在を思い出して少し慌ただしく心が波打ったかもしれない。
『少し慌しかったかもしれませんね。つい、いつも来てくださる訳ではないから、この機会にと常日頃思いついたことを一気にしてみようと思ってしまうのかもしれません。』
それで翁には通じるはずだ。
そもそも翁には家主が何に心を砕き、動き回っていたかなど伝わっている。
彼らはそんな目に見えず、手に触れられないものを通わせ、感じることを好んでいるからだ。
(良い色じゃ。)
『そう言ってくださると思いました。』
深い深い苔のような濃茶の羊羹。
それも表面には金箔をあしらったものだ。
傘で見えない目元が柔らかに細められている空気が伝わった。
(これをわざわざ用意しておったか。)
『いただきもので申し訳ないですけれど。なんだかそっくりだと思いましたの。』
苔むした雨に濡れた傘を被ってふらりと訪れる翁。
いつ来るやとも知れない来訪者を思い起こさせる上品なお茶菓子は、もし近く翁が訪ねてくるなら振る舞いたいと思っていたのだ。
そんな家主の心を感じてか、翁の傘に自生した色濃い苔の緑が鮮やかに生気を帯びたように見えた。
(ありがたく馳走になろう。)

『あら、やんでる…。』
翁の傘の苔が少しばかり鮮やかに見えたのは気のせいではなかったらしい。
ふと奥座敷から板間を通り越して縁側の向こうに見える空を見ると白みがかって光が薄ぼんやり差してきている。
見えない雨が上がったのだ。
そして、雨が上がったということは…。
『…食べる時間なんてあったのかしら?』
ただの一間、翁から目線を外して外を見ていただけなのに視線を戻せばもう姿が見えない。
茶飲みにはまだ湯気を上げている飲み頃のお茶が入っているし、羊羹は手付かずのまま。
だが、彼らはそうして食していく。
(気に入ってくれたかしら?)
するっとお盆を自分の方に手繰り寄せて、まだ茶飲みの中身を一口、芳醇な香りが鼻腔を擽り、舌触りは柔らかく絹のように喉へと滑っていくようだ。
羊羹も口にしてみると滑らかに口の中でゆっくりと味わっていたくなるようなお茶の香りと甘さ、そして見ただけでは気付かなかったがそこの方には小粒の餡子が仕込まれている。
お茶が味見に飲んだ時よりも格段に美味さを増しているので、おそらく羊羹も翁の気が入り、うま味を増しているだろう。
一目では手を付けたのかも分からないし、人間らしい表情を浮かべない彼らを窺い知れることは容易くはないが、こうしたところでわかりやすく伝わってくる。
『あらあら、よっぽど気に入ってくれたかしら?
今度どこで手に入れたのか聞いておきましょう。』
傾いてきた薄いオレンジ色の太陽の光に照らされて薄く薄く虹が見えた。
『またいらして頂戴。雨宿りさん。』

その翌日、奥座敷の様相を見て頭を抱えた。
『しまった…。』
確かに、確かに奥座敷は日が余り入らないし、家の中でも湿気が溜まりやすい所ではある。
しかし、畳を拭いて掃除をするのをすっかり忘れてしまって1日経っただけでこの有り様とは少しはしゃぎ過ぎではないだろうか。
雨宿りの翁が座っていた場所にはこんもりと苔の絨毯が生え、白くて可愛らしい茸がいくつか顔を出していた。
『これは、畳を変えなきゃダメねぇ…。』
さっそく手配しなくては。
訪れる来訪者は珍客ばかり、たまにはこんなことも起きてしまうが、彼らとの交流は飽きることなく尊く儚い。
次の来客はいつどこから来やるのか。
またそれは別のお話。

不思議で不思議なお話を書いています。本当かどうかは誰にも分からない。いつかは全ての人が忘れてしまうそんなお話。