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旅をする石 ①

 <1> 

 視界の隅をひら、と赤い色が通り過ぎた。
 少年が目深に被った笠を押し上げ、それを目で追う。
 歳の頃は十六、七だろうか。面差しにはまだ僅かに幼さが残っているが、歳の割には旅装が随分と様になっている。
 勾配の急な峠越えの道中だった。考え事をしながら俯いて歩いていた為、周囲の変化に少しも気付いていなかった。
 そこは色付いたもみじの大群落で、笠の先を持ち上げ頭上を見上げると、日差しを透かして山が赤々と燃え上がっていた。
「おぉ… 凄いな」
 歩き詰めで乱れた息を整えつつ、少年が思わず感嘆する。
「テイも見るか?」
 そう言って懐から白茶けた布包みを取り出す。掌の上で包みを開くと、拳大の黒い石が現れた。
「ほら、きれいだぞ」
 しかし、いくら待っても何も起こらない。
 少年は苦微笑をもらす。
「ここは明るすぎて嫌か」
 一歩下がって木陰へと入り、足元のきれいな一枚を拾って石の上に置く。
 しばらく待つと小さな黒い手が石から湧き出て、そっと葉を掴み石の中へと沈めたが、すぐにぷいと吐き出した。
「気に入らないか、最近ご機嫌ななめだな」
 少年がため息をつく。まぁ、理由の察しは付いていた。
「茶店があったら団子買ってやるから機嫌直せよ。それに今日は、ちゃんと宿に泊まるからさ」
 少年は石を一撫でし、布で包むと懐に戻した。
「さ、もう一踏ん張りだ」

 その黒い石の中には、お化けが棲んでいる。
 いつからか、どういったものなのかは、良く知らなかった。
 ハクロからは、ある湖の水を全て閉じ込めた石、と聞かされていた。
 オバケの名前はテイという。ハクロが付けた名だ。『底』と書いてテイ。
 少年の名前も、ハクロが付けた。『満』と書いてミチだ。
 彼に拾われる前には別の名があったが、もうよく覚えていなかった。
 今の少年にとって、あの頃の記憶は前世のものだったのではないかと思える程に遠く朧げで、でもいつまでも頭の隅にほんの少しこびり付いていて、たまにその小さな瘡蓋を見つけては、あぁそんな事もあったんだっけと、ひとりごちる程度のものになっていた。
 ハクロに拾われ旅をした十年、目まぐるしい日々の経験の中で、ミチは一人で旅ができる程に成長していた。
 そう、彼は今、一人で旅を続けている。

 半年程前の出来事である。
 桜が満開のある春の日、ハクロが書き置きと石一つを残して、突然いなくなった。
 書き置きには行く先などは一切書かれておらず、テイの扱いについてだけが幾つか書かれているのみだった。
 起き抜けに手紙を見つけ、寝間着のまま何度か文面に目を通したミチは、それを荷物の中にしまうと、いつも通りに身支度を整えた。
 ハクロが居ずとも、取り敢えず、いつも通りに振る舞った。
 いつもの場所に自分の露店を出し、売り物を整えながら考える。
 ここ何年か、ハクロがふらっと書き置き一つで数日居なくなることは何度かあった。
 だが、必ず戻る頃合いがしたためられていたし、何よりテイを置いていったのは、これが初めてである。 
 予感はあった気がする。ずっと、昔から。
 ハクロは、態度こそ冷たくはなかったが、近すぎず遠すぎず、いつも自分との距離を一定に保つ様に心がけていた。
 あくまで、他人であると。
 ハクロの終始一貫したその態度があったからこそ、そう遠くないいつか、独り立ちしたなら、もうそこからは一人で生きて行かねばならないと、ミチ自身もそう思ってきた。
 それなのに、その時が来るのが、あまりにも何の前触れもなく唐突で…
 青い空をゆっくりと流れていく雲をぼんやりと目で追いながら、店先に座って溜め息をつく。
 ハクロは多分、もう戻らないだろう。
「…どうしようか」
 それでもつい、正直な気持ちが口からこぼれ出る。
 しかし、どうしようも何も、そのつもりでハクロが出ていったのなら、自分にそれを止める手立てはないように思われた。
 何しろ、自分はただの拾われだ。ハクロが手を離すと決めたのならば、その手に再び縋るのは、もう許されない気がした。
 適当に放り出すような人なら、十年も育ててはくれなかっただろう。感謝こそすれ、恨む筋合いは一つも無い。
 大丈夫だ。これから先、一人でも多分、何とかやっていける。
 今までハクロには、そのように育てられてきたのだから。
 それにしても…
「もうちょっと説明とか、気持ちを整理する時間とか…」
 客に対してはすこぶる愛想が良いハクロだが、それ以外となると途端に無口無愛想なのは相変わらずだ。少しくらい文句を言っても罰は当たらないだろう。
 そして何より、テイを置いていった事が、腑に落ちない。
 あれほど肌身離さず、常に持ち歩いていたのに。
 何にしても急なことで、あまりにも実感がなく、その日はふわふわと上の空のまま、売り上げもさほど上がらず店仕舞いになった。

 宿に戻り、行灯の元でハクロの書き置きと布包みの石を、文机に並べる。
 半日考えた末、やはりもう一人の意見も聞かねばと思ったのだ。
「テイ」
 呼び掛けると、包みの隙間から真っ黒い小さな腕が一本、のたのた這い出してくる。
 昔からこんな風に、ハクロの目を盗んでテイと遊んだものだ。
 こっそり残しておいたお八つの団子をテイにやっては、こっぴどく叱られたりもした。
 布の隙間から這い出してきた手の甲をつつくと、氷のように冷たい小さな手が、ミチの指先を探し、握ってくる。
 心なしか、テイの動きに戸惑いと不安を感じる。
「ハクロが居ないの、分かってるのか… お前は何か聞いてないの?」
 と、指先を握るテイの力が、ぎゅうと強くなった。
 まるで、親の着物の袂を握りしめて離さない子供のような、そんな仕草に思えた。
 これは、鏡か何かだろうか。
 戸惑いも、不安も、置いていかれた心細さも、全部、自分の感情だった。
 不意に胸を突かれて、我慢していたものが迫り上がる。
 自分が我慢をしていたことに、ミチは今、やっと気がついた。
 何とかして呑み込まねばと、無意識のうちに堪えていたが、土台無理な話だったのだ。
 こんな一方的な話があってたまるものか。
 ぽろぽろと悔し涙をこぼすミチの頬を、テイの黒い手がぺたぺたと撫でる。
 ひとしきり泣いて大きく息をつくと、ミチはぐいと袖口で目元を拭った。
 その顔に、もう迷いはなかった。
「テイ、ハクロを探しに行こう」

 そうやって、ミチは初めて、一人の旅に出た。
 しかし勢い込んで飛び出したものの、手掛かりは無いに等しく、路銀を稼ぎつつ、今までの旅を思い返してはあちこち訪ね歩き、そうこうしている内に数ヶ月が過ぎたが、ハクロの行方は杳として知れなかった。
 互いの身の上話を、何となくの内に避けてきたのが仇となって、郷里をはじめハクロの事を殆ど知らないミチは、ついに音を上げた。
「駄目だ、滅多矢鱈のしらみ潰しじゃ、まるで追いつける気がしない」
 そこで知恵を絞った結果、ある場所を思い付いた。
「ここからだと随分遠いけど…」
 そこは『福屋』という宿だった。
 奥山にある温泉町の、鄙びて落ち着いた静かな佇まいが売りの宿である。さほど大きくはない小体な町だったが、湯治客でそれなりに活気があった。
 ミチがまだ幼かった頃、二年間ほど、ハクロはこの町を拠点に商いをしていた時期がある。
 その頃、常宿にしていたのが福屋であった。
 福屋には仲居が何人もいて、いつも忙しなく立ち働いていたが、ハクロとミチの泊まる部屋については、女将自身が都度顔を見せ、何かと便宜をはかっていた。ミチ自身も随分と可愛がってもらった記憶がある。
 その頃は何も不思議に思わなかったが、今なら随分な高待遇であると分かる。
 もしかすると、ハクロと何か縁のある場所なのではないか。
 随分と無沙汰をしているが、ここでなら何か手掛かりが掴めるかもしれない。
 ミチは紅葉の山道を、足を急がせ歩いた。


 <2>

 七、八年振りくらいになるだろうか、福屋は記憶のままの姿でその場所にあった。
 詫びた風情の門構えに、濃紺地に染め抜きで控えめに福屋と屋号の入った暖簾がかかっている。
 入り口脇の美しい枝振りの楓、丁寧に整えられた前庭。
 そこからゆったりと弧をえがく敷石を伝っていくと、瀟洒な玄関が見えた。
 何から何まで、いつも泊まっている安宿とは余りに違う… と今更ながら気後れしてくる。
 両引き戸の開け放たれた玄関先から、そっと奥を覗いた。
「お泊まりですかいの」
 突然背後から声をかけられ、ミチは飛び上がった。
 慌てて振り向くと、箒を手にしたお仕着せ姿の、小柄な老爺が立っていた。
 吃驚して何も言えずにいるミチの顔を覗き込んで、老爺が「おや」と呟き、次いで歯を見せ、にかぁと笑った。
「まぁ、随分と大きゅうなられましたな」
「あっ」
「サクゾウのお爺でございますよ。何度も庭で子守を致しましたでしょうに」
 にこにこと話す老爺に、ミチの顔も明るくなった。
 サクゾウは庭師兼、下足番として長く福屋に勤めており、宿の商いが忙しくない時は、庭仕事の傍らミチの相手を良くしてくれたのだった。
 確かに覚えている。
「ご無沙汰しています。えっと、お元気そうで… 俺のこと、よく分かりましたね」
「あたしが何年下足番やってるとお思いで? 客の顔を覚えるのが商売ですよ、まだまだ耄碌しとりゃしません。しかし何です、水くさい。さぁさ、他人行儀なことを言わず、まずは中にお入んなさい。あたしは女将に知らせてこよう」
「あ、ありがとうございます」
 かくしゃくとした足取りで裏手へと去っていく老爺を見送って、ミチは笑った。昔と比べると見た目は少し老け込んだが、喋り方も足取りも、ちっとも変わってはいなかった。

 玄関の庇を潜ると、蝙蝠の意匠が施された立派な衝立が目に入った。
 これもよく覚えている。こんな立派な意匠の衝立は、ミチはここでしか見た事がなかった。
 上がり框に腰掛けて草鞋の紐を解いていると、奥から衣擦れの音が近づいて来てミチは顔を上げた。
 スッと美しい所作で、目の前に女が座った。軽く前に指を付いて一礼する。
「いらっしゃいまし」
 顔を上げた女が、にっこりと微笑んだ。
 凛とした佇まいの美しい女性だった。
 切れ長の涼しげな目元に、泣き黒子が一つ。
 福屋の女将、キヲである。
 ミチも慌てて頭を下げた。
「どうも… ご無沙汰しています」
 少し混乱した。
 小さい頃の記憶と、殆ど変わらない女将の容姿に、どぎまぎして顔が上げられない。
 優しいけれど怖い人、昔そんな風に思っていた事を、ふと思い出す。
 年齢不詳の妖しい美しさが、子供心にもそう思わせていたのだろうか。
「変わりませんねぇ」
 くすくすと、女将が上品に笑う。
「えっ」
「小さな時分も、よくハクロさんの後ろに隠れて、そんな風にもじもじしていらっしゃいましたわ」
 その言葉で我に帰った。
「そうだ、あの、ハクロはこちらに来ていませんか?」
 勢い前のめりになるミチの様子に、女将が小首を傾げる。
「ついぞお見限りですけれど… ご一緒では無いのですか?」
 ミチの肩が目に見えて落ちた。
「…そう、ですか」
「何か、ご事情がおありのようですね」
 女将が、立ち上がって言う。
「まずはお上がりなさい、中でお伺いいたしましょう」

 通されたのは一階奥の客間だった。
 中庭に面した障子は開け放たれ、濡れ縁越しに気持ちの良い秋風が吹き込んでくる。
 床の間の調度も整った、設えの良い部屋だった。
 出された座布団に座って暫く待つと、仲居が菓子盆を持って現れ、茶菓を供した後、ミチの荷物を持って下がった。
「お荷物は二階奥のいつものお部屋に。室内もすぐに整えさせますね」
 そう言って、女将のキヲが対面に座る。
 どの所作をとっても、つい見惚れてしまうような美しさだった。
「さっきちらっと見えたのですが、お鞄に付けてらっしゃった端切れ… 蝙蝠の刺繍の」
 勧められた茶に口をつけながら、ミチが目を上げる。
「あぁ、はい。御守りだってハクロに聞いていたので、子供時分の着物を処分する折に、あの部分だけ手元に残したんです」
 ふふ、と柔らかく女将が笑う。
「やっぱり。あの背守り、私が縫ったんですよ… 懐かしい」
 ミチが目を丸くする。
「そうだったんですか、ちっとも知らなかった。ハクロそういうの何も話してくれなくて… あぁ、そういえば玄関の衝立も蝙蝠の意匠ですね」
 女将が頷く。
「蝙蝠は吉祥の動物なのですよ。由来を知っていますか? 海を渡った大陸の言葉で、蝙蝠の蝠と福の字は同じ発音なのだそうです。そこにあやかって吉祥とされているのだとか」
 ミチが何かに気付いた表情を作る。
「そう、当宿の屋号は福屋」
「それで衝立の意匠に蝙蝠が…」
「今でもまだあの刺繍を持っていて下さったなんて、嬉しいですわ」
 言いながら、女将が姿勢を正した。つられてミチも居住まいを正す。
「…さて、お話を伺いましょうか」
 ミチは促されるまま、これまでのハクロとの経緯を話した。
「正直、もう手がかりが何もなくて… 藁にもすがる思いだったんですが」
 力なく笑みを漏らすミチに、キヲが気遣わしげな視線を送る。
「申し訳ありませんが、ハクロさんのご郷里など、ご自身に関する事は何も存じ上げておりません。あの方はご自分の事を気安く語る方ではありませんでしたし… これは私よりも、むしろミチさんの方がよくご存知でしょう」
 ミチ自身が何も知らない時点で、言わずもがなであった。
「ただ…」
「ただ?」
「ミチさんは、ハクロさんがお持ちの石のことは、勿論ご存知ですよね?」
「えっ、女将さんはあの石の事、ご存知なんですか?」
 女将が目顔で頷く。
「とはいえ、詳しい事を存じ上げている訳ではないのです。ミチさんをお連れになるよりもずっと以前に、お部屋でその石をお見かけして、不思議に思って尋ねてみた事があって… 何でも、とある湖の水を全て閉じ込めた物だとか」
「ええ… 俺もそう聞いていますが」
「話してくださったのはそれだけです。でも、その時のハクロさん…」
 遠い記憶を見つめるように、女将の視線がすうっと遠ざかった。
「とても悲しそうに、でも愛おしそうに、その石を撫でたんです」
 女将はそっと目を伏せ、二、三度瞬いてから顔を上げると、ミチを真っ直ぐに見た。
「長いお付き合いですけれど、ハクロさんがあのようなお顔をされたのは、私の知る限りその一度切りです。勿論、私の見聞きはご逗留されている間の事でしかありませんけれど、それでも、そのたった一度でよく分かったんです。ハクロさんとその石には、深い深い縁がある… であれば、その石が取り込んだという曰くの湖とも、何らかの繋がりがあるのではないでしょうか」
 夕焼けの色が差し込む部屋で、女将が静かに微笑んだ。

「これは、手掛かりにはなりませんか?」


< ② に つづく >