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読書ノート 「知の教科書 フロイト=ラカン」 新宮一成・立木康介編

 新宮一成が主となり編纂した、フロイト・ラカンの入門書。入門書と言ってしまうには少し専門的かもしれませんが、そこは頑張って理解しましょ。

 私にとって新宮一成は青春のスターの一人であり、ラカンへの扉を開いてくれた恩人である。高校生の頃、「夢からの帰路のためのチャート」を季刊・へるめす誌上で読み衝撃を受け、新宮氏に手紙を書いたぐらいである。その後、『無意識の病理学』『夢の構造』『無意識の組曲』、新書の『夢分析』『ラカンの精神分析』と読み繋いできた。途中、藤田博史『精神病の構造』(Imagoの論文は衝撃的だった)、S・フェルマン『ラカンと洞察の冒険』、アラン・ジュランヴィル『ラカンと哲学』(こればっかりはまだ理解できていない)、向井雅明『ラカン対ラカン(現在は『ラカン入門』)』などに親しむが、まだ『エクリ』は読んでないんだなあ。

 共同編者の立木康介氏はその著作(『精神分析と現実界』)のあとがきで、「はたちになるかならないかのころ、新宮先生の『夢の構造』に出会っていなければ、私はラカンを本気で読もうとは思わなかったであろう」という告白に、同世代として最大限の同調を表明します。

 新宮さんが書いている第一章からのフラグメント抜き出しでお茶を濁します。いつか『夢と構造』についてもここで書き連ねてみたいものです。


  • フロイトの「無意識」の発見に出会うということは、ひび割れだらけの近現代の精神史の中から、理性に堪え得ず無意識にすがるようになった近代人としての自己像を引きずり出してくることである。

  • 人間とは「現実を操る知能があったから生き延びられた種」なのではなく、「現実を操れるという錯覚を抱いて滅びてしまう危険があったのに、それにもかかわらず生き延びてきた種」なのである。

  • 真の「現実」は、…経験の中のこの場所、つまり、「眠りと目覚めの間」という場所に、回帰してくる。この真の「現実」は、そもそもどのようにして生まれ、どこに潜んでいるのであろうか。その出所は次の点にある。それは、私たちを普段の意味での「現実」から引き剥がすものは、必ずしも「夢」だけではなく、私たちがそれによって人生を営んでいるところの「言語活動」そのものであるという事実である。「夢」が「現実」を無視した展開を見せるのは、まさに夢がこの言語活動の本質を最も徹底的に実践するからである。

  • フロイトにとっては、言語に生きる人間が現実を失ってしまっているのは当然であり、問われるべきは、それにもかかわらず人間がいかにして現実の中で行き続けていられるのかということであった。

  • 人間と現実の間の関係の問題は、人間の思考と言語の間の関係の問題というソシュールのヴィジョン。

  • 「無意識は一つの言語活動として構造化されている」(ラカン)

  • 「マーヤのヴェール(経験世界は幻影の覆いに過ぎない)」(ショーペンハウエル)

  • 独我論は形式的には正しいが証明できない(ウィトゲンシュタイン)

  • 私たちの言語活動は、自らが消去した「現実」を取り戻すことを願うが、もし「現実」が言語の中に放り出されたら、今度は言語活動のほうが無力化と断片化の危機にさらされる。「現実界」が言語のほうからは「不可能」として定義されざるをえないのはそれゆえである。

  • 言語と現実の関係しだいでどのようにでも動かされてしまう人間の生命、そして死。この受難を探求することが精神分析の実践と理論の仕事であり、それはまだしばらくは終わりそうにない。フロイトからラカンへと受け継がれたものは、このような言語と現実の関係を人間のために立て直そうとする志である。ただし、個々のフロイトの概念をラカンが教条的に再使用することはない。志をまっすぐに受け継ぐためには、逆に複雑に概念を変容させることが要請されたように思われる。


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