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読書ノート 「ポスト資本主義 科学・人間・社会の未来」 広井良典

 広井良典は京都大学人と社会の未来研究員教授。専攻は公共政策と科学哲学で、社会環境・福祉・経済、医療・社会保障、ケア・死生観・時間・コミュニティなどをテーマに学際的・横断的な活動を展開している。厚生省勤務時代にはMITにも留学、最近では外務省の「国際社会の持続可能性に関する有識者懇談会」委員などを務める。

 まあ、わかりやすいかと言われれば、わかりやすいし、的を得ている。信頼に足る言説を提供いただき、こちらもその延長線上を不安なく考えることができる。ここでは重要コメントを列挙する。


  • アメリカの未来学者レイ・カーツワイルの「技術的特異点(シンギュラリティ)」の議論。技術の発展による飛躍的な融合(シンギュラリティ)が近い未来に起こり、そこでは高度に発達した人工知能(AI)とナノテクノロジーにより人体改造された人間が結びついて最高の存在が生まれ、さらには情報ソフトウエアとしての人間意識が永続化し、人間は死を超えた永遠の精神を持ち続けると言った議論。


  • 狩猟採集段階の前半において、狩猟採集という拡大する生産活動に伴ってもっぱら外に向かっていた意識が、何らかの形での資源・環境制約にぶつかる中で、いわば内へと反転し、そこに「心」あるいは有用性を超えた装飾や広義の芸術への志向、ひいては宗教の元型としての、死の観念を伴う「自然信仰」が生まれたのではないか。


  • 「記憶鈍麻剤」「気分明朗剤」


  • 「アベノミクス」が志向する金融市場の無限の電脳空間と、カーツワイルの描く意識の無限化のビジョンは究極において同質の方向性を持っている。


  • 近代科学と資本主義=限りない拡大・成長の追求。


  • 第四の拡大・成長。技術的な突破の可能性があるとしたら、それは、①人工光合成②宇宙開発ないし宇宙脱出③「ポスト・ヒューマン」


  • 資本主義システムはいつ、どの時代に生まれたか。水野和夫は、それを①一二~一三世紀、②一五~一六世紀、③一八世紀とする山下範久の説を引きながら、一二一五年の第四回ラテラノ公会議でローマ教会が金利(利子)をつけることを認めたことをもって実質的な資本主義の成立としている。


  • 資本主義=「市場経済+限りない拡大・成長」を志向するシステム

  • 「G(貨幣)─W(商品)─〝G(貨幣)」(マルクス『資本論』)


  • ウォーラーステイン「私は、『資本主義』を独自の定義で用いている。すなわち、無限の資本蓄積が優先されるシステムとして定義される史的システム、という定義である」「この定義を用いると、近代世界システムだけが、資本主義的なシステムであるということができる」

  • マンデヴィル「私悪すなわち公益」資本主義精神の原型


  • 一七世紀西欧の「科学革命」

①法則の追求(背景としての自然と人間の切断)
②帰納的な合理性(ないし要素還元主義)(背景としての共同体からの個人の独立)


  • 「情報の消費」(見田宗介)はある意味主観的なものであり、また非物質的要素を含んでおり、そうであるが故にそれは「無限」に拡大しうるポテンシャルを持っている。


  • 「二十世紀が人口増加の世紀だったとすれば、二十一世紀は世界人口の増加の終焉と人口高齢化の世紀となるだろう」(ルッツ)


  • 期待の搾取

  • サブプライム・ローンに見られるような「金融」政策主体の対応は、高所得者から低所得者への再分配を行うことなく、つまり所得の平等化を進めることなく、いわば未来に対する低所得者層の「期待」に働きかけて、その未来の収益を先回り的に収奪するという構造になっている。他方で富裕層などは保有するマネーの拡大それ自体への関心が高いので、こうした政策は積極的に支持されることになる。

  • しかしより根本的な矛盾は、このような貸付を行った金融機関については、いわゆる「システミック・リスク(システムそのもののリスク)」の名のもとで、あるいは「巨大すぎて潰せない」という理由から、しばしば政府ないし国家によって救済されるという点にある。この場合の「システム」とは、まさに「資本主義というシステム」と言えるが、こうした救済策は、「資本主義の自己矛盾」(西部忠)と呼べる性格のものと言えるだろう。中枢にいるものは「自己責任」の原則に逆らって救済され、末端にいるものについては自己責任原則が貫徹するとすれば、それはきわめてアンフェアなシステムということになる。


  • ブローデル「資本主義は反ー市場的である」


  • 金融市場の餌。無限の電脳空間と意識の無限化。資本主義は「無限」が大好物。それなしでは生きていけない。(⇒無限なる無意識を最後のフロンティアとする空想科学小説)。


  • 「観念の自己実現」

  • たとえば「〝中国がやがて日本に攻めてくる〟とかりに多くの人々が予測し、日本が軍事力を大幅に強化したら、それを見た中国が脅威を感じ、日本に攻撃をしかけてきた」といった例に示されるもので、「中国が攻めてくる」という予測が、まさにその予測とそれによって生じた「現実」の変化によって、〝自己実現〟したのである。


  • アメリカは医療費の規模が先進国の中で突出して高く、しかしそれにもかかわらず、平均寿命は逆に最も低い。つまりアメリカは、研究費を含めて医療分野に莫大な資金を投入しているが、にもかかわらず、その成果ないしパフォーマンスはむしろかなり見劣りするものとなっている。

  • アメリカの医療システムの悪いところ(私費医療の拡大、医療費の高騰、医療による格差拡大と階層化、平均寿命ないし健康水準の劣化)を追従するような日本の「混合医療の拡大(公的医療と私費医療の組み合わせ拡大」政策の推進⇒医療産業の医療産業の成長・拡大という発想と結びつき、進んでいくことに懸念、強い危惧。医療や健康をめぐるテーマを考えるにあたっては、技術政策だけを切り離して議論してはならず、それは社会システム全体との関わりにおいて把握され構想される必要がある。


  • およそ人間の観念、思想、倫理、価値原理といったものは、究極的には、ある時代状況における人間の「生存」を保障するための〝手段〟として生成するのではないか。


  • 生命はエントロピーの増大の原則に〝逆らって〟存在するものであり、つまり「無秩序から秩序を生み出している」のが生命現象の本質であって、それをシュレディンガーは比喩的に〝生物は負のエントロピー(ネゲントロピー)を食べて生きている〟と論じた。

  • ニュートン以降の近代科学の歩みは、「自然はすべて機械」という了解から出発しつつ、ある意味で逆説的にも、その外部に置かれた〝ニュートン的な神〟=世界の駆動因を、もう一度世界の内部に順次取り戻し、すなわちそれを「人間⇒生命⇒非生命」の領域へと拡張していった流れであったとも理解できるのではないか。それは実のところ、近代科学成立時の機械論的自然感がいったん捨て去ったアミニズム的要素──〝生ける自然〟あるいは自然の内発性──を、世界の内部に新たな形で取り戻していった流れと把握することもできるであろう。その結果、先にも論じたように、近代科学はある意味で〝新しいアニミズム〟とも呼ぶべき自然像に接近しているとも言えるのである。


  • 現代では、生産性が上がれば上がるほど失業が増えるという逆説的な自体が生まれている。

  • マンデヴィルの〝個人の私利の追求が社会全体の富の拡大につながり、結果として公的な善になる〟という考えが成り立つ条件は、社会全体の富あるいはパイの総量が拡大を続けるという前提にこそあるのだった。しかし、現在は人々の需要が成熟・飽和し、他方では地球資源の有限性が顕在化し、限りないパイの総量の拡大という前提がもはや成立しない状況になっている。そうした中で拡大期と同じような行動を続けるとすれば、プレイヤー同士が互いに首を絞め合うような自体が一層強まっていくであろう。


  • 「社会的ジレンマ」──多くの人が本当はある行動を取りたくても、他者が協調的な行動を取ってくれるかどうかわからないので、やむをえず不本意な競争的行動をとること──をいかに回避するか。


  • 「時間を環境問題としてとらえる」(生物学者の本川達雄)

  • ビジネスの本質は、「エネルギーを大量に使って時間を短縮すること(スピードを上げること)」「エネルギー⇒時間」という変換。

  • 縄文人から四〇倍のスピード(エネルギー消費)に現代人は身体的についていけなくなりつつあり、「時間環境問題」の解決こそが人間に取っ手の課題であると本川は言う。

  • 時間環境を緩やかにすること、それは、「時間をもう少しゆっくりにして、社会の時間が体の時間と、それほどかけ離れたものではないようにする」

  • 生産性概念の再考。かつての時代は〝人手が足りず、自然資源が十分ある〟という状況だったので「労働生産性」(少ない人手で多くの生産を上げる)が重要であった。しかし現在は全く逆に、むしろ〝人が余り(慢性的な失業)、自然資源が足りない〟という状況になっている。したがって、そこでは「環境効率性(資源生産性)」、つまり人はむしろ積極歴に使い、逆に自然資源の消費や環境負荷を抑えるという方向が重要で、生産性の概念をこうした方向に転換していくことが課題となる。

  • しかしながら放っておくだけではそうした転換はなかなか進まないので、経済的なインセンティブによって「労働生産性から環境効率性へ」という方向に企業の行動を誘導していくことがポイントとなる。西欧・ドイツの「エコロジー税制改革」がその好例。


  • 介護などの領域は、日本においてそれが概して低賃金であり離職者が絶えないことにも示されているように、市場に委ねるだけではその労働の価値が著しく低く評価され、維持できなくなる。そうした分野の公的な財政で何らかの形で支えるような政策が特に重要になる。


  • ケインズの、政府の市場介入は、ピラミッドの一番上、つまり「雇用」そのものを生み出すことができた。それはシステムの根幹に遡ったものへと拡張してきた。言い換えれば資本主義がそのシステムの順次〝社会化〟してきた、あるいはシステムの中に〝社会主義的な要素〟を導入してきた。


  • これからの進化の展望。

①「人生前半の社会保障」などを通じた、人生における〝共通のスタートライン〟ないし「機会の平等」の保障の強化
②「ストックの社会保障」あるいは資産の再分配(土地・住宅・金融資産など)
③コミュニティというセーフティーネットの再活性化


  • 個人の概念。現実の社会においては、個人は〝裸の個人〟として均等に世の中に生まれ出るのではなく、家族あるいは家系というものが存在し、そうしたいわば世代間の継承性の中においてこそ個人は存在するという(ある意味で当然の)事実なのである。したがって、こうした世代を通じた継承性の部分に何らかの形で〝社会的な介入〟を行わなければ、あるいは「相続」という私的な営みに関して何らかの再分配ないし社会化を行わなければ、前の世代の個人に関して生じた「格差」はそのまま次の世代に継承されていくことになる。


  • 社会を構成する基本的なユニットを「個人」とみるか「家族ないし家系」と見るか。


  • 相続は最後までもっとも〝私的〟な領域として残されている。しかしながら、ある意味そうした対応の帰結として、現実には次第に「格差の相続ないし累積(あるいは貧困の連鎖)」という点が無視できない形で浮上するに至っているのが現在である。

  • 個人の自由の保障は、〝自由放任〟によっては実現せず、むしろそれは積極的あるいは社会的に「作って」いくものなのである。


  • 日本とギリシア・イタリアなどの南欧諸国は、社会保障全体の規模は相対的に低いが、年金の規模は大きい。

  • 日本の年金制度は、「過剰」と「過小」の共存という状況に追い込まれている。報酬比例の年金制度が、比較的高所得者へ過剰な年金を受給させ、反対に64歳以上の単身女性では53%が「相対的貧困率」の範疇に入る。

  • つまり、日本の年金制度は「世代内」「世代間」の双方において、ある意味で〝逆進的な〟、つまり「格差をむしろ増大させる」ような制度になってしまっている。

  • 環境と福祉が充実している国=一定以上の平等が実現している社会においては、競争圧力は相対的に弱く、まtが再分配への社会的合意も一定程度存在するため、「経済成長」つまりパイ全体を拡大しなければ豊かになれないという発想ないし〝圧力〟は相対的に弱くなるだろう。それは「分かち合い」への合意が浸透しているということでもあり、つまりこれら「福祉/環境」関連指標や社会像の背景には、そうした人と人との関係性(ひいては人と自然の関係性)のありようが働いているのだ。

  • 同時にそこには、そもそも自分たちが「どのような社会」を作っていくか(いきうるか)という点についてのビジョンの共有ということが関わっているだろう。現在の日本の場合、そうした〝実現していくべき社会〟や「豊かさ」の姿が見えず、政治あるいは政党もそうしたものを示しえておらず、人々は途方に暮れているという状況ではないか。


  • 日本はアメリカと並んで「非環境志向・非福祉国家」に分類している。

  • それらの根本的な背景として、日本においては、工業化を通じた高度成長期の〝成功体験〟が鮮烈であったため、「経済成長がすべての問題を解決してくれる」という発想から抜け出せず、人と人との関係性や労働のありかた、東京ー地方の関係、税や公共性への意識、ひいては国際関係(「アメリカー日本ーアジア)という序列意識など)等々、あらゆる面において旧来型モデルと世界観を引きずっているという点が挙げられるだろう。

  • 未来の収奪。化石燃料による近代資本主義が過去の収奪なら、原子力発電は放射性廃棄物を含め、後世世代の生活を大きく損なうものであり、未来の収奪と言える。


  • 地球倫理の視点から、自然信仰・自然のスピリチュアリティに対して積極的な評価を。


 社会全体を冷静に俯瞰し、遠大に見通す視座を提供してくれている。
 ヒントいっぱいです。足りないのは宗教的視座ぐらいだろうか。

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