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読書ノート 「汚辱の世界史」他 短め寄せ集め11冊



「汚辱の世界史」 J.L.ボルヘス

「吉良上野介」を取り上げる。いわゆる悪党大全だが、吉良上野介の主題は仁義であり、ことさらボルヘスはそれを称える。ということは、日本のみの価値観ではなく、世界的にもそうした仇討ち・敵討ちというのは、感情的に共感の対象になるのだろう。若干美化されすぎているような気もするが、それは昇華され、物語元型になっていく過程であると考え、善しとする。


「The Future is Japanese」 伊藤計劃・円城塔・小川一水・他

 アメリカのハイカソルが出版した、日本がテーマのSFアンソロジー。海外作家と日本の俊英が掲載されている。すべてを読んではいないが、良かったのは、ケン・リュウの「もののあわれ」であった。サイバーパンクの御大であるブルース・スターリングの「慈悲観音」も読んだが、感動は少ない。日本の作家たちはすでに評価が定まった、伊藤計劃・円城塔・小川一水・菊地秀行・飛浩隆であり、ここでは触れない。
「もののあわれ」の、自他精神、あるべきようを追求する誠実さを、ケン・リュウがそれを日本精神の真髄と思っていてくれるのなら、それは幸いなことである。


「西洋哲学史Ⅰ 『ある』の衝撃からはじまる」 神崎繁 熊野純彦 鈴木泉 他

 主に東大の哲学関係教授の論文集。時系列的に並べ、一定の纏まりを付けているが、各論文に繋がりはない。基本的に自分の守備範囲の言いたいことを書くというスタイルなので、論者に近い人達はまあ、それでいいのだろう。無論、テーマに興味のある読者は楽しめるだろうし、各専門分野の最前線的なテーマを取り扱ってもいるのだろう。しかし新奇性は感じられない。今のところ私は井筒俊彦が性に合っており、あの詩的で論理的、かつ膨大な知識を惜しげもなく投入してくる(他に言うなら山口昌男、今村仁司)コンテキストが好みであるのだ。そうした観点からここに書かれた文章を読むと、専門分野に固執して、それ以外のカテゴリーからの反証もなく、どう贔屓目に見ても、独りよがりな感じが出てきてしまうのであった。 
 金子善彦氏「アリストテレス」が、アリストテレスを概観されており、私にとっては勉強になりました。「感覚とは、感覚される形相を、その質料を伴わずに受け容れるものである」ですな。「感覚とは比である」「アリストテレスの感覚論が告げるのは、このような直接知の可能性である」なるほどなあ。



「異常論文」 樋口恭介編

 いや、おもしろいんではないか。これがSFマガジンから出てきたこともすごくいいし、新しい書き方の提示にもなっており、新たな地平が開けた感じがする。もともとSFは思弁小説(スペキュレイティブ・フィクション Speculative Fiction)でもあり、仮設から始まり論を展開する論文との相性はいい。書き手はこのフォーマットで書く、ということにモチベーションを上げることもできるだろうし、こうした形式であれば書けるという類のアイディアも多く存在する。 形式って大事ですね。


「闇を讃えて」 ホルヘ・ルイス・ボルヘス 

 あまり世に出ていないボルヘス最後の詩集。散文と詩。
 「時間は私のデモクリトス」で、最後に自分を知るというボルヘスは、死期が近かったのだろう。



「ロンド その他の三面記事」 ル・クレジオ

 なんだか悲しい気持ちになる。三面記事(交通事故や暴行、盗みなど)の小説化。犯罪行為とそこに流れる思想性のない欲望の吹出口が、弱者(この場合は子供、女性、外国人)に向うさまを詩的な表現で物語化する。しかし、けっしてそれらは聖化されてはおらず、この地上に中途半端に晒されることになる。救いはない。旋回、旋回。癒やしのない暴力のロンド。


「心は燃える」  ル・クレジオ

 ル・クレジオ五冊目の中短編集。「海を見たことがなかった少年」のような無垢な子供たちはここにはいない。あるのは、悲惨な現実と、卑劣な裏切り、それに抗するため自分自身を切り売りしながらけんめいに土着に生きる女達の姿だ。しかし希望もある。実際、人間の生き方ってそんなもんじゃないだろうか。


「ベンヤミン 『歴史哲学テーゼ』精読」  今村仁司

 今村仁司書下ろし作品。いやあ、難しい。アーレントも評価するベンヤミンの最後の思索である「歴史哲学テーゼ」。今村仁司がいう「謎めいた」難解な断章だが、今村も決してわかり易い文章を書く人ではないので、これを理解するには相当な力量がいる。私にはまだその力量は備わっていなさそうである。わからないまま、断章フラグメントを書き記す。

「・・・つまり概念的に語る人間がこの世界のなかでどう「生きている」(生活している)のかをも説明しなくてはならない。あるいは主観に即していえば、概念的に思考する自己がどのようにして概念(またはイデア)を獲得したのかを自覚しなくてはならない。要するに、思考する人間が現実的歴史的世界のなかにあることを、ひいては身体的=物質的生活をしていることを自覚しなくてはならない」

「ベンヤミンがプラトンのイデア論を改作するといったが、それは初期のベンヤミン以来の課題であって、改作の要点は、イデア論をライプニッツのモナドロジーとつなぐところにある。ごく抽象的にいえば、ベンヤミンの歴史哲学は、プラトン=ライプニッツ合成体をつくり、それをもって歴史的世界を概念的に把握することである」

「たしかに、ベンヤミンの言説は、どこをとっても一般の常識からはずれているし、逆説的である。彼がいうような『唯物論』はかつていちども思想の歴史のなかに登場したことはない。そこにベンヤミンの思想的な『賭け』があり、われわれはそこにベンヤミンの優れた思想的遺産をみるのである」(今村仁司)


「兎追いし日々 アンソロジー〘光る話〙の花束7」  加藤幸子 編

 ル・クレジオの掌編が掲載されているとういうだけで読んだ本。掲載されているのは、「アザラン」(豊崎光一・佐藤領時 訳)であった。読了後も爽快、ああ、クレジオだなあ、この透明感、などと悦に入っていたのだが、なんのことはない、この話は本棚に鎮座する『海を見たことがなかった少年』に入っているではないか。持っている本を完璧に読んでいないことを思い知らされる出来事でした。

「でもおじさんは食べもしないし飲みもしないわ!」とアリアは叫んだ。

「君に言いたかったのはそのことさ、お月ちゃん」マルタンは言った。「断食するのはね、食べ物も飲み物も欲しくないってことだ、別のものがどうしても欲しいからだし、それは食べたり飲んだりすることよりも大切なことだからなんだよ」

「じゃあ何が欲しいの、そのときは?」とアリアは訊ねた。

「神だよ」マルタンは言った。

 マルタンが、立ち退きを命じられ、行くあてのなくなった最貧困層の住民たちを引き連れ、死の行進と思われる、深い河へ黙々と入っていく場面で物語は事切れる。希望なき希望、しかしある種の救いはある。それを受け入れるかどうかは、各人が持つ神の位置にかかっているのかもしれない。



「ラガ 見えない大陸への接近」  ル・クレジオ

 「本書で著者ル・クレジオが扱うのは南太平洋にひろがるメラネシア、そこに一九八〇年に生まれた独立共和国ヴァヌアツ、その中でも特に、独自の言語と習慣が生きている島ペンテコスト島です。現地名はラガ。…メラネシア地域は概して土壌の豊かな火山島が多く、森が濃く、川の水量が多く、歴史的にいって人口もかなり多い土地柄でした。そのことを端的に証明するのが言語の多さで、それは私たちの創造の限界を、笑うようにあっさりと超えてゆきます」

 「現在、私たちが『世界』と呼んでいるものが、過去数百年の『ヨーロッパ』が作り上げたものであることは間違いありません。侵略し、拡張し、市場を作り、交易をおこない、莫大な富を得るにいたった集合体の名、それがヨーロッパです。彼らはその拡大の裏面として、各地の土地の社会を破壊し、財と資源を徹底的に奪い取り、人々を殺し、奴隷化し、あらゆる面で搾取してきました。それは否定しようがない歴史であり、この血まみれの事実群の上に、私たちのグローバル化された世界は、今も続いています」


「『挫折』の昭和史(上・下)」  山口昌男

 石原莞爾の項が面白い。解説の福田和也が言う。「二・二六事件に深く関与していた山下奉文にしろ、石原莞爾にしろ、質は違うものの、社会に対する顧慮がその行動の動因をなしており、その点下積みの人々にたいする共感をほとんど欠いている海軍軍人とはまったく違う。もちろん彼らの憂慮が、昭和政治史を迷走させたことは否めないのだが、山口氏の歩きぶりは、彼らの『挫折』が、その失敗においてどれだけの拡がりと可能性を含んでいたかを、多様な角度から想起させてくれる」

 海軍はやましき沈黙のなか、非人道的な所作を、人間としての一線をたやすく超え、その判断の責任に対して無自覚のままだ。その一方、陸軍が日本の仮想庶民の無意識を集め、報国天国を求めたなかに、下世話な欲望に負けつづける姿を、この本では少し離れた視座からあぶり出す。その中心に石原莞爾が「メタ軍人」として座っていたのである。

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